『辞書になった男~ケンボー先生と山田先生』
(佐々木健一著:文春文庫)を読了しました。
本書は、「明解国語辞典」という国民的辞書をともに作ってきた
二つの辞書(「三省堂国語辞典」と「新明解国語辞典」)が生まれたのか、
その真相に迫った本で、とても読み応えがありました。
本書のなかで、私が強く印象に残ったのは、
二人が訣別に至った経緯というよりも、著者が「おわりに」の箇所で書いていた、
「ことば」についての次のような記述でした。
・様々な番組の取材をしていて、いつも感じることがある。
それは、名も無き人々が語る「ことば」の、目に見えない大きな「力」だ。
・「ことば」には元来、意思疎通をはかるために“伝える”という要素だけでなく、
わざと“伝わらないようにする”要素も含まれており、
様々に変化し、多様化していくという、二律背反した要素が備わっているのだ。
・ケンボー先生は、「ことばは、音もなく変わる」と言った。
山田先生は、「ことばは、不自由な伝達手段である」と言った。
辞書に人生を捧げた二人の編纂者は、
「ことば」というものの本質を見事に捉えていた。
う~む、なるほど……。
「ことば」に対する考え方が一変するような記述です…。
また、国語辞典については、著者は次のように書かれていました。
『多様な世界観で捉えた、手の平でおさまり、無限に広がる“宇宙”
それが「国語辞典」だった。』
なお、本書には、二つの辞書から、いくつかの「語釈」が紹介されていますが、
やはりその極めつけは、「新明解(三版)」の【世の中】という語釈だと思います。
【世の中】
同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織りなすものととらえた語。
愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、
常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。
実に惚れ惚れする語釈です……。
私も、そして皆さんも、まさしくその【世の中】に、今、生きています。