しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

雨のコラムに思うこと

西日本を襲った記録的豪雨から今日で1週間です。この間に蝉が鳴きはじめました。

また、この間に全国紙では、「雨」に関する次のような一面コラムがありました。


まずは、7月8日の産経新聞産経抄」です。

『7月6日あるいは七夕の雨は牛車から飛び散るしぶきとされ、

 「洗車雨(せんしゃう)」と呼ぶ(「雨のことば辞典」倉嶋厚原田稔編著)。

 雨と涙の詩情に潤う関係は言葉も育んできた。恋にまつわる涙を「袖の雨」「袖時雨」といい、

 悲嘆の折に降り注ぐ雨を「涙雨」と呼ぶ。

 これらの言葉を口にするとき、耳朶(じだ)を打つ土砂降りを思い浮かべる人はいまい。

 西日本から東日本にかけて降り続いた大雨はしかし、天の川をはさんだ慕情だけでなく、

 昨日までの人の営みも、家族や友人らとの分かちがたい結びつきも冷たく断ち切ってしまった。』


次は、7月10日の朝日新聞天声人語」です。

『日本語には、激しい雨をあらわす言葉がいくつもある。

 まるで小石のような大粒の雨を「雨礫(あめつぶて)」といい、

 たたきつけるような降水は「掠雨(りゃくう)」である。

 水の入った盆を傾けるように、との例えから「雨盆(あめぼん)を傾く」の言い回しもある。

 どれも尋常でない天候を指す言葉であろう。しかし、どれを口にしても生やさしく感じてしまう。

 そんな豪雨が西日本一帯を襲った。決壊、冠水、土砂崩れ‥。府県を超えて広がる災禍である。』


う~む‥‥。「洗車雨」、「袖の雨」、「袖時雨」、「涙雨」、「雨礫」、「掠雨」ですか‥。

確かに今回の「豪雨」は、どれを口にしても生やさしく感じてしまいます。

ところで、愛媛県内では、

梅雨明け後の厳しい暑さのなか、被災地の復旧作業が懸命に行われています。

地震や風水害など過去幾多の災害を先人が乗り越えてきたように、

今生きている私たちも、必ずこの難局を乗り切ることができると信じています。

それなりに時間をとられるもの

昨日11日の日経新聞「プロムナード」は、

俳人・神野紗希さんの『全部やだ男(お)』というタイトルのコラムでした。

そこでは最近、「名前のない家事」が話題だとして、次のようなことが書かれていました。


『「名前のない家事」が話題だ。掃除、洗濯、料理といったメジャーな家事のほかにも、

 生活は些細(ささい)な家事にあふれている。

 乾いた食器を棚に戻す、トイレットペーパーを補充する、裏返った靴下を直す‥‥

 ひとつひとつは小さなアクションだが、積み重なるとそれなりに時間をとられる。

 夫婦共働きが当たり前になった現代、

 これらの些細な仕事が、家事分担の不平等感を生む原因になっているという。

 夫が残したおかずにラップをかけて冷蔵庫へしまうとき、

 ふと「食べてくれたらこの手間いらないのに」と思う妻。

 逆に夫は「ボトルの麦茶を1cmだけ残すなんて。飲み切って新しいの入れてよ」と

 イライラしているかもしれない。

 これまで、名前がなかったがゆえに無視されがちだった、こまごまとした家事。

 「名前のない家事」という名前を与えることで、その家事の存在が、目に見えるものとなった。

 分担し改善する対象として、存在を認識できるようになったのだ。』


う~む、なるほど‥‥。「名前のない家事」ですか‥‥。

些細な家事なら、この私にもたくさんあります。

「ご飯を研いで炊く」、「洗濯物を畳む」、「洗濯物を所定の位置に入れる」、

「食洗機の食器をもとの位置に戻す」、「食器を定位置に並べる」、「食器を洗う」、

「ゴミを集める」、「ゴミを分別する」、「ゴミ出しに行く」、「お弁当を作る」、

「休みの日の昼食を作る」、「休みの日に買い物に行く」‥‥。


神野さんご指摘のとおり、これらが積み重なるとそれなりに時間をとられます。

一方、妻は、仕事帰りの買い物や夕食作りのほかには、

庭木の剪定、家周りの清掃、庭の雑草取りなど‥‥。


はぃ‥、ということで、我が家では、どちらが「男」でどちらが「女」なのか、

ほとんど区別がつかなくなっています。(苦笑)

データで裏付けられた楽観主義

今日の日経新聞「Deep Insight」は、『J&Jの折れない経営』という記事でした。


記事によると、米欧の今年のベストセラー「ファクトフルネス」という本のタイトルは、

「十分な事実に基づいた見方だけを支持すること」という意味で、

本の著者は、「温暖化は止まらず、戦争や内戦は今も起きているが、

全体としては、世界は少しずついい方向に向かい、フラットになっている。

確かな目を持ち、現実を正確に認識すべきではないか」と書いているそうです…


というのも、人間は物事を悲観的な方向に考えやすく、

毎日着実に起きている改善には目を向けない傾向があるそうで、

・食糧や水が不足する地域に住む人の割合は現在、世界人口の15%にまで減っているのに、

 大半の人はもっと悪い数字を選択肢から答える傾向が強かったこと

・一方、感染症予防のワクチンを接種できる乳幼児はすでに80%を超えているけれど、

 「もっと低い」と考える人が圧倒的に多かったこと

などの事例がこの本で示されているそうです。


そして、アジア経済危機やリーマン・ショックを乗り切り、56年間、増配を続ける企業として、

創業1886年、ニュージャージー州に本社がある医療器具とヘルスケア製品のメーカー、

ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)が、次のような内容で紹介されていました。

・米中のIT(情報技術)企業が台頭する中でも

 株式時価総額の世界ランキングでは現在、11位(6月末)。

・ほぼ同時代に創業したゼネラル・エレクトリック(GE)は先月、

 業績や株価の低迷でダウ工業株30種平均の構成銘柄から外れたが、J&Jはいまも残る。

・J&Jは75年も続く「アワ・クレド(我が信条)」という綱領を持つことで知られ、

 それを土台に世界の人口、高齢化、都市化、中間層の動向を追い続ける。

 「長い目で見れば世界は進歩する」との楽観主義と、

 データに裏付けられた緻密で長期の経営姿勢が大きな特徴。


う~む、なるほど‥‥。

私は、自分の将来には悲観的なのに、日本経済の将来には楽観的なのですが、

ひと言で楽観主義といっても、「データに裏付けられた楽観主義」が大切なのですね‥‥。

何ごとにつけ、「根拠のない自信」は禁物です。(反省)

「精神社会への無関心」を考える

四国地方が今日、梅雨明けしたそうです。「豪雨」の後は「猛暑」です‥‥。

もうすぐ聞こえてくる蝉の鳴き声も、今年は悲しい響きに感じるかもしれません。


さて、今日の朝日新聞デジタル版に、作家の高村薫さんが、

『精神社会、無関心な私たち』という論評を寄稿されていました。

とても考えさせられる内容だったので、

その要点を次のとおりこの日記に書き残しておきたいと思います。


・死刑制度の是非はべつにして、かくも重大な反社会的行為が身近で行われていた数年間

 日本社会はいったい何をしていたのだろうか。

 私たちはオウム真理教の何を恐れ、何を断罪したのだろうか。

 教祖らの死刑執行を受けてあらためてそんな自問に駆られる傍らには、

 教団の反社会性を看過し続けた私たちの無力と無関心、

 さらには一方的なカルト宗教批判に終始したことへの自省や後悔が含まれている。

 また、教祖らの逮捕から二十三年、日本社会がこの稀有(けう)な事件を

 十分に言葉にする努力を放棄したままこの日を迎えたことへの絶望も含まれている。


・形骸化が著しい伝統仏教の現状に見られるように、

 日本人はいまや宗教と正対する意思も言葉ももっていない。

 この精神世界への無関心は、理性や理念への無関心と表裏一体であり、

 代わりに戦後の日本人は物質的な消費の欲望で人生を埋めつくした。

 地道な言葉の積み重ねを失ったそういう社会で、

 若者たちの求めた精神世界が既存の宗教でなかったのは、いわば当然の結果だったと言える。

 彼らは伝統仏教の迂遠(うえん)な教義と権威を拒否し、

 手っ取り早いヨガの身体体験に出会って社会に背を向け、

 疑似家族的なカルト教団に居場所を求めたのである。


・信心と帰依は信仰の本態である。

 また信仰は本来、自身を守るための殉教や殺戮(さつりく)もあり得る絶対不可侵の世界であり、

 もとより社会制度や通念とは相容(あいい)れないところで立っている。

 オウムをめぐる言説の多くが生煮えに終わったのは、

 信仰についてのそうした本質的な認識が私たちに欠けているためであり、

 自他の存在の途絶に等しい信心の何たるかを、

 仏教者すら認識していないこの社会の限界だったと言えよう。


・それでも、いつの世も人間は生きづらさを和らげる方便としての信仰を

 求めることを止(や)めはしない。

 オウム真理教が私たちに教えているのは、非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、

 社会に正しく配置することの不断の努力の必要である。


う~む‥‥。(絶句)

私は信仰と宗教について、語るべきものを何も持っていないことに愕然とします。

高村さんが言われる「宗教と正対する意思も言葉ももっていない。」というのは、

このような私を指しているのでしょうか‥‥? もうすこし考えてみることにします。

人情の機微に触れる

今日は、久しぶりにお天道様を拝めたと思たら、一転、うだるような暑さとなりました。


さて、柳家家禄さんの『落語家はなぜ噺を忘れないのか』(角川SSC新書)を

読んだことをきっかけに、ころところ落語を鑑賞するようになりました。

気持ちが落ち込んだときなどに、ふらっと「YouTube」にアクセスしています。


どなたの落語が面白いのか、私にはまだよく分からないので、

著名な「五代目柳家小さん」さんや「六代桂文枝」さんの落語を主に観ることにしました。

なかでも面白かったのが、

「五代目柳家小さん」さんは「笠碁」、「六代桂文枝」さんは「大・大阪辞典」でした。


また、最近は、NHKテレビ「日本の話芸」をビデオに録画して、

仕事が休みの日に観るようにしています。

先日は、柳家小三治さんの「粗忽長屋」を観たのですが、これが実に面白くて、

それからは「YouTube」でも「柳家小三治さん」の落語を観るようにしています。


若い頃には、ほとんど落語に興味がなかった私‥‥。

ようやく「人生の機微」というか、「人情の機微」が理解できるようになったのかもしれません。

少し遅かったけど‥‥。