しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

難しい「非凡な努力」

日経新聞電子版「私のリーダー論」は、毎回楽しみに読んでいる記事の一つです。

昨日は、アサヒグループホールディングス、 小路明善社長兼CEOへのインタビュー記事で、

次のようなQ&Aがありました。


Q グループ連結で2万8000人の従業員に向け、リーダーとして何を伝えていますか。

A よく言っているのは「非凡な努力を評価します」ということです。

 成果とは才能と非凡な努力の掛け算です。

 例えば「読む」「書く」「話す」という能力がそれぞれ「10」あったとしましょう。

 努力が「1」しかなければ、掛け合わせてもそれぞれ「10」、

 合計で成果は『30』となります。一方で能力が「5」であっても、努力が「10」だとしたら

 5×10×3で」「150」になるのです。

 会社は非凡な努力をする人材の集団で成り立っているのです。


Q 「非凡な努力」とはどのようなことですか。

A 私が新入社員のときに営業の先輩から教わりました。

 はじめは先輩と都内の居酒屋を営業していたのですが、

 しばらくすると「1人で回れ」と言われました。「1日20軒、とにかく自分で考えて回れ」と。

 毎日20軒回るのは大変なことです。これを10年間続けたら一流の営業担当者になれますよ。

 こうしたことが非凡な努力なのです。 ~ (中略) ~

 私は労働組合の専従を10年間務めました。

 社員は会社にとって命で(人件費は)経費ではなく投資だと思っています。

 社員の成長が会社の成長になるのです。

 非凡な努力を重ねる人材と共に会社を成長させたいと常日ごろ考えています。


う~む‥‥。「非凡な努力」ですか‥‥。でも、実行するのはとっても難しい‥‥。

また、社員は「経費ではなく投資」というのは、まったくもってそのとおりだと思います。

(「費用ではなく資産」という言い方もできると思います。)

そして、投資に見合う人材になるためには、その人の「非凡な努力」が欠かせないのですね‥‥。


現役の頃も、そして定年退職した今も、私にはこれが欠けてるのだと自覚しています。

哲学の大切さを学ぶ

日経新聞紙面とその電子版で、「キセキの高校」という連載が続いています。

これが実に面白いだけでなく、「哲学」が生きていくうえでいかに大切か、

考えさせられる内容となっています。連載第三回目の今日の紙面は、冒頭、次のような文章で始まります。


『「偏差値が低い学校の生徒は伸びる」。東京大教授の梶谷真司(52)は経験から知っている。

 受験偏差値では都立高で最低に近い大山高校(板橋区)で「哲学対話」が始まるきっかけをつくった。

 1つのテーマを決め、互いに問いと答えを繰り返すことで、生徒は気づいていない本来の力を取り戻す。』


さらに、詳細な記事を電子版で読むと、「哲学」と「哲学対話」について次のようなことが書かれていました。

・問う。考える。語る。それこそが哲学。それこそが、自由なのだ。

・学校で、職場で、何かを「考える」とき、人は難しい顔になる。

 オトナの集まりであればあるほど、眉間にしわがより、沈黙は重くなる。なぜだろう。縛られるからだ。

 表向き「自由な発言」を許す会議や集まりはもちろんある。

 しかしそのような場でも、人は場の空気や互いへの配慮に縛られ、およそ自由に話すことなどない。

・対話では「なぜ?」「どうして?」と問いを向けられる。

 すると具体的な経験や、自分の内に秘めていた考えを基に語らなくてはならない。

 うなずき合う共感ではなく、語り合うことから生まれる解放感のようなもの。

 梶谷はそれを「日常の前提から離れて自由になること」と表現する。

・自由だと感じること、それが体を軽くする。考えることが、人を自由にし、背負った荷を軽くする。


う~む、なるほど‥‥。

「問い、語り合うこと」は、「日常の前提から離れて自由になること」なのですね。

私は、この記事を読んで、哲学者・池田晶子さんが、

常々『悩むな、考えよ。』とおっしゃっていた意味が、少しだけ分かったような気がしました。

「哲学」とは、物事の本質を考える、絶えざる営みなのですね‥‥。

私もあまり悩まずに、まずは考えることを心掛けたいと思います。自由になるために‥‥。

読めなかった漢字?

今日、帰宅後に、なにげなく「msnニュース」に目を通していると、

『「已む」読めなかった? 安倍首相が歴史的儀式で驚きの大失言 』

という見出しの記事に目が留まりました。そこには、次のようなことが書かれていました。


『4月30日、「退位礼正殿の儀」で、安倍晋三首相はおそらく歴史に残る大失言をしてしまった。

 それが起きたのは「国民代表の辞」のほぼ末尾だ。

 「天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願っていません」

 これでは、国民の大多数の願いとは全く逆だ。

 文書として公表された「国民代表の辞」には当然、「願ってやみません」とある。

 なぜこんな間違いが起きたのか。

 動画で確認すると、安倍氏は懐から出した文書を読み上げたのだが、

 「あられますことを願って」まで進んだところで一瞬口ごもり、

 その後で「あらせられますことを願っていません」と発言していることがわかる。

 「願ってやまない」の「やむ」は「已む」と書く。

 「己」や、十二支の「巳」と紛らわしい字ではある。

 安倍氏が手にした原稿では教養のある官僚が漢字で書いていたため、なんと読むかためらって、

 「願っていません」と言ってしまったのではないかとも思われる。』


へぇ~、そんなことがあったのですか‥‥。私はまったく知りませんでした。

記事でも指摘しているように、

「憲政史上初の儀式」という大切な場で、国民を代表し、

天皇、皇后両陛下に直接あいさつをされるのに、下読みも十分にしていなかったとしたら、

「皇室に対する敬意を欠いている」と言われても仕方がないのかもしれません。


ですが、私には安倍首相を責めたり、批判したりする資格はありません。

だって私も、「已む」を「やむ」と読めませんでしたから‥‥。

原稿も最初からひらがなで書いておけばよかったのかも‥?

事において後悔せず

このところ、結構多忙な日々が続いています。

私はこの4月から週4日の短時間勤務となりましたが、仕事量はフルタイム勤務時と変わりません。

当たり前とはいえ、今まで5日間で仕事を処理していたものを、

現在は4日間で処理しなければなりません。

ましてや、昨日のように週に1日でも出張が入ると、

机に書類が溜まる一方となり、それがかなりのプレッシャーとしてこの身に襲い掛かります。

ですから、普段は怠け者のこの私でも、結果的に勤務時間中は、

脇目も振らずに仕事に取り組むことになります‥‥。


う~む‥‥。フルタイム勤務から短時間勤務への判断は、果たして正しかったのでしょうか?

まぁ、でもやっぱり3日間のお休みは、精神的な解放感をもたらしてくれるのは間違いありません。

宮本武蔵ではないけれど、「我事において後悔せず」の心構えで、

自分で決めたことなのだから、とにかくこの一年間を乗り切りたいと思っています。


あぁ‥それにしても、肩こりのせいでしょうか、初期症状の口内炎が痛い‥‥です。

さっぱり思い出せない‥‥

このところ、昼間は気温が高く、汗ばむような陽気が続いています。

でも、朝晩はどうかと言うと、薄着でいるとヒンヤリと感じます。


‥‥何が言いたいかというと、朝起きて、その日に着る服に迷ってしまうのです。

今日も、宇和島市で開催された某会議に出席したところ、

出席者の中には、半袖のポロシャツ姿の人がいました。

一方、寒がりの私は、スーツの下に長袖のワイシャツとベストを着用していました。

(さすがに暑かったです。)


そこで、去年のこの時期に、何を着ていたのか必死で思い出そうとするけれど、

年のせいか、私はさっぱり思い出すことができません‥‥。

こんな悩み、ひょっとして私だけなのかしら‥‥?

(今日はあまり書くことがないので、とりとめのない日記になってしまいました。)