しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

人に物語あり、国家に歴史あり

今月9日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、オーストラリア国立公文書館

『Your story,our history』という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『そのホームページに2010年から17年まで掲げられていた標語。

 人の一生にはそれぞれの背景と物語がある。国家の統治にもまた経緯と歴史がある。

 その一つ一つを大切にし、闇に葬ることのないよう、膨大な記録と証言を集め保存する。

 後の世代が自身と家族の物語を、「国と民主主義」の歴史をさらに紡いでゆくにあたり

 正しい判断をなしうるよう、資料を能(あた)うかぎり緻密(ちみつ)に収集し、整理する。』


う~む、なるほど‥‥。

一読して、素晴らしい言葉とその解説だと思いました。

「人に物語あり、国家に歴史あり」ということですね‥。

特に、「人に物語あり」では、さだまさしさんの名曲「主人公」を、連想的に思い起こしました。

♬ あなたは教えてくれた 小さな物語でも 自分の人生の中では 誰もがみな主人公

  時折り思い出の中で あなたは支えてください 私の人生の中では 私が主人公だと 


そして、自分のこのつたない個人的な日記も、ひょっとしたらいつの日か、

「孫娘や、そのあとに続く世代の役に立つ日が来るかもしれない。」と思いました。

いや‥‥、そんな大それたことは考えずに、日々の雑感を、これからも淡々と書き続けていきたいと思います。

子どもの頃の原風景

今日は午前中に、実家のお墓にシキビをお供えし、

午後からは、母の故郷である伊予市双海町小網にお墓参りに行きました。(もちろん、今日は妻と一緒です。)

今年1月に亡くなった叔父が新盆を迎えるため、そのお焼香を兼ねての先祖のお墓参りです。


母の両親、すなわち私の祖父母のお墓は、海沿いに立地する母の実家(叔父の家です)から

徒歩で数百メートル登った見晴らしの良い高台に位置しています。

下の3枚の写真は、その高台に位置するお墓から撮ったもので、

右端の写真に写っているように、遥か遠くには松山市の沿岸を一望することができます。

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子どもの頃、ここから小網の集落を見下ろすと、まるでピンクの絨毯のような景色を見ることができました。

庭先や屋根に筵(むしろ)を敷き詰め、そこに採れたてのエビを並べて、特産の干しエビを作っていたのです。

それは私にとって、この透き通るような海で泳いだ体験と共に、決して忘れることのない「原風景」です‥‥。


ところで、今日の日経新聞一面コラム「春秋」に、次のようなことが書かれていました。

『近所のスーパーにお盆用品を取りそろえた一角があった。

 供物を載せる小さなござや、火をたくためのほうろく皿、線香にらくがん、ちょうちんなどなど。

 都会の片隅でも、亡くなった人を迎える昔ながらの風習が息づいている。

 どんな由来で、いつごろ始まったのか。 ~ (中略) ~

 墓に参ってご先祖と向き合い、食卓を囲み父母や親族らと語らう。

 だが、そんなひとときにも少子高齢化は、じわり影響を及ぼし始めたのかもしれない。

 最近「墓じまい」なる言葉を見聞きするようになった。

 管理しにくくなったケースで、墓石を片付けて更地にし、遺骨は別の納骨堂に移したり、

 散骨したりするものだ。

 5年前には、若い女性の減少で都会も含め多くの自治体が消滅危機とのショッキングな調査もあった。

 「盆夕べ仏壇の灯に賑(にぎわ)へる」(大野林火)。

 墓も故郷もなくなれば、句のごとき情景は遠いものとなろう。

 社会が縮む中、店先にお盆の品が並ばない日が、やがて来るのだろうか。

 大事な何かが失われつつある気がする。』


私の記憶の中からも、いつの間にか「大事な何か」が失われつつあるような気がします‥‥。

ご先祖様のお墓参りを済ませ、そのようなことを切に感じた次第です。

夕陽を見たくなる日

昨日は夕方から、西の海岸に夕陽を見に行きました。

なぜかしら、ふと夕陽を見たい気持ちになることがあります。昨日がそういう日でした。

日中は厳しい暑さだったけれど、この時間の波打ち際は、心地良い浜風が遠慮気味に吹いていました。

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さて、今朝起きると、妻が「お盆の前に、これから私の実家のお墓掃除に行きましょう」と言いました。

ですが、ぎっくり腰が完治していない私は、往復3時間の道のりと酷暑の中の掃除がとっさに頭に浮かんで、

薄情ながら、丁寧にお断りすることになりました‥。(一人で行った妻の立腹した顔は想像にお任せします。)


妻がいない家に一人で居ても、後ろめたい気持ちが続きそうだったので、父のお見舞いに行くことにしました。

病室に入ると、ちょうどNHKEテレの「囲碁トーナメント」が放映されていて、

父は食い入るようにテレビ画面を観ていました。


日常生活では認知が進んでいる父も、囲碁は今でもしっかりと理解・判断ができるようで、

ルールもほとんど知らない私に、棋士が打つ手を解説してくれました。

病状に変化のない元気そうな父を確認して、病室を後にした次第です‥‥。

それにしても今日も外は、めちゃ暑かったです。


明日は、私の実家のお墓に、シキミ(こちらではシキビと呼びます)をお供えに行こうと思います。

それでも闘うという責務

久しぶりに読書感想文の日記を書きます。

『武器になる哲学』(山口周著:株式会社KADOKAWA)を読了しました。


本書は、「ロゴス・エトス・パトス」、「ルサンチマン」、「悪魔の代弁者」、「神の見えざる手」、

リバイアサン」、「無知の知」、「エポケー」など、

「人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50」を解説しています。

この50のキーコンセプトのなかで、とりわけ印象に残ったのは、

正義感の研究で先駆的な業績を挙げたというメルビン・ラーナーが提唱した「公正世界仮説」でした。


この章の冒頭、著者の次のような解説がありました。

『日の当たらない場所であっても、地道に努力すれば、いつかはきっと報われる、

 という考え方をする人は少なくありません。つまり「世界は公正であるべきだし、実際にそうだ」

 と考える人です。このような世界観を、社会心理学では「公正世界仮説」と呼びます。』


そして、著者は、「公正世界仮説」の問題点の一つを、次のように指摘されていました。

『‥‥それは、この仮説に囚われた人は、しばしば逆の推定をするということです。

 つまり「成功している人は、成功に値するだけの努力をしてきたのだ」と考え、

 逆に何か不幸な目にあった人を見ると「そういう目に遭うような原因が本人にもあるのだろう」

 と考えていしまうわけです。いわゆる「被害者非難」「弱者非難」というバイアスです。

 例えば日本にも「自業自得」「因果応報」「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」など、

 弱者非難に繋がることわざがありますね。

 ~ (中略) ~ さらに「努力は報われる」という公正世界仮説に囚われると「社会や組織を逆恨みする」

 ことになりかねないという点も指摘しておきたいと思います。』


そして、この章の最後に、著者は次のようなことを述べられていましたが、

この記述がもっとも私の心に刺さりました。

『世界は公正ではありません。そのような世界にあってなお、

 公正な世界を目指して闘っていくというのが私たちに課せられた責務でしょう。

 人目もつかぬ努力もいずれは報われるという考え方は、

 人生を破壊しかねないのだということをよく覚えておいてください。』


う~む‥‥。どうやら私のこれまでの人生観も、

「努力はいずれ報われる」という「公正世界仮説」に囚われていたような気がします。

そうではなくて、世界は公正ではなくても、公正な世界を目指していく姿勢・態度が大切なのですね‥‥。

座右の書がまた一冊増えて、とても嬉しく思っています。

終日、孫娘のお相手

立秋になってからも相変わらず厳しい暑さが続いています。

さて、私は、今日は金曜日なので仕事はお休みです。

家で一人ゆっくりと過ごすつもりでしたが、

仕事で忙しい妻と娘から、孫娘のお相手をするように仰せつかりました。


そのため、今日は孫娘と二人、次のような一日を過ごすことになりました。

朝は近くのドラッグストアに徒歩で買い物、昼はピラフを作り、その後は、郊外電車で松山市へ。

いよてつ高島屋の大観覧車「くるりん」に乗り、東急ハンズで買い物。

再び郊外電車に乗って大手町で下車、松山市コミセンの中央図書館で読書。

最後に、父が入院している病院にお見舞い‥。(久しぶりに曾孫の顔を見て、父は大喜びでした。)


ふぅ~、疲れました。

ぎっくり腰は「安静」が一番の治療方法なのに、なかなか完治しそうにありません。(トホホ)