しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

内部留保を動かす

吉野彰・旭化成名誉フェローがノーベル化学賞を受賞されたことを受けて、

今日の日経新聞電子版に、『動くか463兆円~ノーベル賞、企業に迫る研究投資』というタイトルで、

次のようなことが書かれていました。


『吉野彰・旭化成名誉フェローのノーベル賞受賞は、

 企業の研究者としては2002年に化学賞を受けた島津製作所田中耕一シニアフェローに次ぐ。

 14年の物理学賞を受けた中村修二・米カリフォルニア大教授も

 日亜化学工業在籍時の成果が対象だった。

 3人に共通するのは、企業が研究者に相応の時間や裁量を与え、おおらかな雰囲気があったことだ。

 日本企業の内部留保は2018年度で463兆円。

 多くの資金を内部にため、研究開発や人材投資に尻込みしているようにみえる。

 吉野氏の受賞は日本企業にお金をどう使うか再考を迫るきっかけになりそうだ。

    ~ (中略) ~

 総務省の科学技術研究調査(17年度)によれば、

 リーマン危機後に急減した企業の研究開発費は14年度以降、回復基調にあるが

 危機前の水準(13兆8000億円)をまだ回復していない。

 内部留保は7年連続で過去最高を更新中だ。

 こうした内向きな姿勢で、世の中を変えるようなイノベーションを生み出せるだろうか。

 リチウムイオン電池に注目が集まる今回の受賞、いまいちど考えるべきことは、

 日本のメーカーが大切に育んできた技術開発の土壌をどう保つかということではないか。』


う~む、なるほど‥‥。

企業は、短期の利潤追求だけでなく、「懐の深さ」というか、

長期的な視野・戦略を持つことが重要なのですね‥‥。

同じように組織における人材育成も、コスト(費用)ではなく、

アセット(資産)であるという認識が大切なのではないかと思います。

記事を読んで、「貯蓄から投資(資産形成)へ」は、企業にこそ当てはまるような気がしました。

経済成長はなぜ必要か

今日は「固い」お話です‥‥。


経済成長が社会にとって必要なことは、雰囲気的には理解できるのですが、

それがなぜ必要なのかについては、正直、私には分かりませんでした。

今日、久しぶりに、「経済レポート専門ニュース」のHPを閲覧していると、

独立行政法人経済産業研究所が、『経済成長はなぜ必要か~マクロ経済と少子高齢化

というタイトルのレポートを公表していました。そこでは、次のようなことが書かれていました。


・経済成長が(科学的な実現可能性の有無を度外視して)社会の目標とされること、

 すなわち「経済成長主義」が社会で共有されていることには、いくつかの政治哲学上の理由がある。


・第一の理由は、経済成長は経済政策の目標として現代の「自由主義」と非常に相性がいいことである。

 多様な価値観が広がった20 世紀以降の現代においては、

 特定の価値観に基づく経済政策は、価値観の押し付けと見做され、政治的に支持されない。

 自由な社会の経済政策は価値中立的でなければならない。

 すると、目標にできるのは、消去法で、財やサービスの「総量」すなわちGDP を増やすことしかなくなる。

 こうして個人の多様な価値観を尊重する自由な社会では、価値中立的な経済成長が社会の目標となる。


・第二の理由は、為政者が「清算の日」を先送りできること、である。

 所得再配分という古い約束の履行は、通常、大きな「痛み」をともなうが、

 経済成長が続けば、古い約束の「清算の日」を永久に先送りできる。成長=先送りなのである。

 これが、「経済成長主義」が政治家に人気のある理由だと言える。


・経済成長主義が現代社会で広がる第三の理由は、それが個人の人生に意味を与える面があるからである。

 近代以降、個人の人生に意味を与える社会共有の伝統的価値

 (宗教やコミュニティの価値)は徐々に失われた。その価値を代替したのが、経済成長である。

 個人が力を尽くしても、生活水準が変わらなければ、経済の発展に貢献したという実感は得られない。

 個人が経済に貢献することに自分の人生の意味を見出せるようになるためには、

 経済が「成長」することが必要なのである。

 こうして「経済成長」が現代社会の目標として広くコンセンサスとなる。


う~む、なるほど‥‥。

特に、第三の理由の「経済成長主義が現代社会で広がる第三の理由は、

それが個人の人生に意味を与える面があるからである。」というのは、とても哲学的だと思います。

高度経済成長の恩恵をたっぷりと受けた育った私には、肌感覚で納得できる解説でした。

身も心も気軽に‥

今日から二十四節気の「寒露」、七十二候では「鴻雁来る(こうがんきたる)」です。

「こよみのページ」には、寒露は、『冷たい露の結ぶ頃。秋もいよいよ本番。

菊の花が咲き始め、山の木々の葉は紅葉の準備に入る。稲刈りもそろそろ終わる時期である。』

との解説があります。

朝晩は、めっきり涼しくなりましたが、昼間は汗ばむほどの陽気が続いていて、

人一倍、寒がりの私が、いまだに半袖のワイシャツで出勤しています。(苦笑)


さて、日経新聞電子版を読んでいると、大林尚・編集委員が、

『「70歳まで働こう」 年金増額は有効か?』というタイトルで、

次のようなことを書かれていました。


『余生という言い方がある。

 手元の辞書を引くと「引退して余生を田舎で楽しむ」という例文が出てくる。

 文字どおり現役を退いた後の気ままな暮らしを心待ちにしている人は少なくなかろう。

 ところが人生100年時代構想を旗印に掲げる安倍政権は、

 年金制度を使って「余生の先送り」を促そうとしている。

 厚生労働省が8月に公表した年金財政の検証結果に合わせて

 (1)高齢者が年金をもらいだす年齢を7歳まで先送りできるようにする繰り下げ受給のススメ

 (2)基礎年金の保険料支払い期間を40年から45年に延長する改革‥‥などを提起したのは、

 その流れに沿った動きだ。

 もうひとつ、俎上(そじょう)に載せたのが在職老齢年金の制度変更だ。

 現在、月収47万円を超す稼ぎがある65歳以上の人は、

 本来もらうべき厚生年金が減らされたり支給を止められたりしている。

 厚労省はこの月収基準を62万円程度に引き上げ、

 年金減額・停止の対象者を少なくする考えをもっている。』


はぃ‥、私も「現役を退いた後の気ままな暮らしを心待ちにしている人」の一人です。

ところが、現実はそんなに甘くありません‥‥。

若い頃は子供の養育のために働き、子供が独立して一安心したのも束の間、

今度は、孫のお相手と年老いた親の介護が待ち受けていました。

そのうち、「余生」という言葉が、国語辞典から消えてなくなるのではないでしょうか‥?


あぁ‥‥、身も心も、早く「気軽」になりたいです。

記憶に残っている試合

子供の頃のかすかな記憶をたぐりよせ、

そして、記憶の裏付けを取るために、インターネットで調べてみると、

その試合は、今から50年以上も前の、1968年(昭和43年)7月13日(土)に、

甲子園球場で行われた「阪神」対「巨人」戦であることが、ほぼ間違いないことが判りました。

当日の試合は、「阪神が1対0で勝ったこと」、

阪神のピッチャーは江夏豊さん、巨人のピッチャーは金田正一さんだったこと」を覚えていました。


当時、私は、滋賀県大津市に住んでいて、父が勤務していた東レ石山工場の社員・家族の人たちと、

バスを借り上げて甲子園球場に行ったもので、

「息詰まる投手戦だったこと」、「ナイターに映える芝生が美しかったこと」が、

半世紀が経過した今でも記憶に残っています。以来、ずっと私は、阪神のファンを自称しています。


そのライバル・巨人の金田正一さんが、昨日6日に、お亡くなりになったそうです。

今振り返れば、金田さんの雄姿を、生涯にただ一度でもこの目で拝見できたことは、

とても幸せなことだと思います。

そして同時に、子供の頃の大スターが、また一人、この世から去られることになり、

何とも言いようもない寂しさを覚えています‥‥。

「永遠」と「一瞬」

NHKテレビテキスト、100分de名著『燃えあ上がる緑の木~大江健三郎』を読了しました。


テキストのなかで一番印象に残ったのは、四国の森の谷間に現れた「救い主」の「ギー兄さん」が、

小児癌におかされた「カジ」と呼ばれる十四歳の少年に語りかけた、次のような言葉でした。


『‥‥この世界で、なお時間が永遠に続いてゆく、たとえば百年続く。

 ところがそこに自分はいない。いつまでも、この世界に戻っては来ない。

 そのことを考え始めると、確かに底の測れないような寂しさだからねえ。

 私も若い頃に、それを考えるようになって、恐ろしくてたまらぬ一時期があったよ、

 若いといっても、いまのカジよりはいくつか年をとってからのことだけれども。

 その恐ろしさは、この世界に生まれてきた者がみなとりつかれうる恐ろしさじゃないか?

 特別な出来事がなくても、一般にね、人が生まれてこなければよかったと感じるのは、

 そしてその後も世界は続く、ということで恐ろしくなる時じゃないだろうか?』


小説のこの言葉の引用に続いて、

テキストの執筆者である、作家の小野正嗣さんの、次のような解説がありました。

『そのような恐怖を人はどのようにして克服するのでしょうか?ギー兄さんがそこでカジに語るのが、

「一瞬よりかはいくらか長く続く間」ということなのです。

 この言葉で、ギー兄さんが言おうとしているのは、人生に喜びや意味を与えるのは、

 決してその長さではないということです。大切なのは、魂が喜びとも感動とも呼べるような

 何か強く深く濃密なものに満たされる感覚に打たれるような瞬間‥‥

 それがどれほどわずかな持続であれ、少なくとも一瞬よりかはいくらか長く続くわけです‥‥

 を経験できるかどうかなのだと。』


う~む、なるほど‥‥。「永遠」に対抗しうる「一瞬」ですか‥‥。

誰もが経験する「死の恐怖」について、「福音」をもたらしてくれる言葉だと思います。


さて、大江健三郎さんといえば、故郷・愛媛県が生んだ偉人のお一人です。

ですが、私は、大江さんの本を、これまで一度も読んだことがありません。

いや、正確に言うと、大江さんのいくつかの本に手を伸ばしましたが、

私にはとても理解できそうにない文章とその内容で、とても最後まで読み通す自信はありませんでした。

今回のテキストは、分かりやすい解説でなんとか最後まで読み通せたものの、

大江さんの本は、私の知的レベルでは、これからも手にすることはないと思います‥‥。