しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

保守主義について考える(続き)

昨日に続いて、「常識としての保守主義」(櫻田淳著:新潮新書)についてです。
今日は、「保守政治家の肖像」と「保守主義の可能性」の章から
「珠玉の言葉」をいくつか御紹介したいと思います。

保守主義の精神は、
 過去から現在に至る「時間の蓄積」を重視する故に、
 それを体現する政治家に要請されるのは、そうした「時間の蓄積」の中で
 自らの政治上の権勢を位置づけようとする謙虚な姿勢である。
保守主義の精神は、その基盤を「時間の蓄積」への感覚に置く。
 その「時間の蓄積」の中には、当然のことながら、
 屈辱、悔恨、慙愧といったネガティヴな言葉で形容する他はない経験も含まれる。
 そうしたネガティヴな経験を敢えて糊塗し、
 あるいは道徳上の高みから断罪する姿勢は、保守主義の精神とは相容れない。
・「力量」や「威信」の裏付けを欠いたまま露骨に追求された「狡猾さ」は、
 政治の目的に相容れない。
 それは、他の人々に対して姑息の印象を与え、その不信を招くばかりか、
 却って自らの立場を切り崩す。
・人間の社会は、自然科学の世界における「実験場」とは異なる。
 それは、過去からの様々な試行錯誤に裏付けられた経験や知識の蓄積に拠りながら、
 地道に向き合っていくものでしかない。
保守主義思潮が「革命」理念に浴びせた批判の主な対象は、
 「革命」理念における「平等主義」の志向であった。
 そもそも、人間の社会において「平等」の価値を過度に追求しようとすれば、
 社会における「多様性」が損なわれる。
 保守主義思潮が「自由」を擁護しても「平等」を警戒する所以は、
 その「多様性」の尊重にこそある。
保守主義を標榜する政治家の証明は、
 民衆に対する「信頼」と「懐疑」の狭間で平衡感覚を保ちながら、
 「統治」に臨む姿勢である。
 その平衡感覚が失われれば、民衆に対する「信頼」と「懐疑」は、
 それぞれ「阿諛」と「侮蔑」に転化する。

それにしても、学生運動の末期に大学に入学し、
学生時代には、新聞は朝日新聞を購読、高橋和己の小説を愛読していたこの私が、
保守主義という思潮に人生の何時の時点で親和性を持つようになったのか、
本人も不思議でなりません。