しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「都会の孤独死」を考える

東京都立川市さいたま市という都会で、胸が痛む事件が相次いで起きました。
22日(水)の産経新聞Web版には、次の記事が掲載されていました。

『都会の一角でまた、助けを求めることもできないまま
 「孤立死」した家族が見つかっていたことが22日、分かった。
 45歳の母親と知的障害を持つ4歳の次男とみられる。
 病気で急死したとされる母の横で、男児はなすすべもなく衰弱していったようだ。
 助けるチャンスはなかったのか。関係者の苦悩は深まる。』

東日本大震災以降、「絆の大切さ」が認識されているなか、
このような現実を前にすると、
そうした言葉が木っ端微塵にはじけ飛ばされてしまいそうです。

こうした現実は、都会だけの問題ではありません。
私の住んでいる町では、15〜20世帯単位で町内会を組織していますが、
私が属する町内会は高齢者世帯がほとんどで、
斜め向かいのお隣は、足腰の悪い単身高齢の女性の方が住んでいます。

塀越しに洗濯物が干されているのが見えて、お元気で暮らされているのが分かりますし、
町内会の組長さんが毎月一回は広報誌を各戸に配布しますので、
その点、都会よりもまだコミュニティーは維持されていると思います。
それでも何日か洗濯物が見えない日が続くと、ドキリとする時があります。
地域住民や行政機関が、個人情報保護といった「プライバシーの壁」を越えて、
どこまで関与して孤独死を防ぐのか、難しい問題を社会が抱えていることを実感します。

この問題に関連して、最近、
佐伯啓思京都大学教授の「反・幸福論」(新潮新書)を読了しました。
著者は、本の中で「無縁社会」のことを書かれています。

「縁」や「しがらみ」という面倒なものを断ち切ろうとしたのが戦後日本であり、
戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ、
あるいは、近代主義者や進歩的知識人たちがしたり顔で唱えた
「近代市民社会」なるもののしごく当然の結果が「無縁社会」なのではないか、
と著者は指摘されています。

「都会の孤独死」と「無縁社会
こうした問題提起について、私たちはどのような回答を用意できるのでしょうか?

反・幸福論 (新潮新書)

反・幸福論 (新潮新書)