日経新聞「経済教室」の連載、
「復興から再生へ〜脱・成長論を疑う〜」の最終回(第四回目)は、
北岡伸一東京大学教授の『「受動的な無責任」改めよ』でした。
北岡教授の論評で、この日記に書き残したと思う箇所を抜き出してみました。
『地震ののちに、
国民の間の助け合いの精神が大いに発揮されたように見えたが、
実際のところ、がれきの引き取りに対して多くの自治体で抵抗があり、進んでいない。
戦後政治についていわれていた危機意識の欠如と公的精神の衰退は、
震災でより顕著に浮かび上がった。
根源には、自国の安全を米国に依存して、
これを当然とする考え方があるのではないだろうか。』
『多くの人が「安全・安心」を強調する。
しかし大事なのは安全の確保であって、安心の確保ではない。
安心を強調するのは、実はお上に依存するということである。
国民が安心を求め、リスクをゼロにせよといえば、
政府はこれに答えて、リスクはゼロだという。こういうフィクションはやめるべきだ。
人生はリスクに満ちている。
リスクを直視し、これをできるだけ減らすように様々な努力をし、
あとはリスクを取って行動することが必要だ。
日本の経済発展の停滞も、根源にあるのはリスクを取らない精神ではなかろうか。』
リスクを回避する精神に対する北岡教授の指摘を読んで、
自分自身のことを指摘されているように思えて、内心ドキリとしました。
小心者の私は、周りの人からは慎重に見えるのかもしれませんが、
要は、リスクを取って何事にも挑戦しようとする精神に欠けているのです。
また、「安全・安心」についても大事な観点が含まれていると思いました。
地方自治体も、最近は流行のように「安全・安心」というフレーズを使用しますが、
「安心を強調すること」は、かえって
「住民の行政に対する安易な依存精神を助長することにつながりかねない。」
という懸念があることについて、認識を新たにした次第です。
北岡教授が論評の最後で引用している、
大正12年10月の石橋湛山の次の言葉は、やはり重みがあります。
『亡(ほろ)び行く国民なら知らぬこと、
いやしくも伸びる力を持つ国民が、
この位の災害で意気阻喪してはたまるものではない。心配はむしろ無用だ。』