韓国特有の文化に「恨」(ハン)というものがあることを初めて知りました。
月刊誌「Voice」10月号では、
総力特集として、「さらば、「反日」韓国」が企画されていますが、
その中で、呉善花拓殖大学教授が、次のように解説されています。
『「恨」とは何かを達成できなかったとき激しく恨んだり、
自らの不幸を嘆く気持ちですね。
日本人の「もののあわれ」がある種の諦めの境地だとすれば、
韓国人の「恨」とはそれとはまさに対照的な精神です。』
また、今日の日経新聞「危機と日本人」では、
宗教家で哲学者の山折哲雄先生が、
「恨の五百年」と題して、次のように述べられています。
『日本語で「うらみ」は「怨」と「恨」にあてられ、ほぼ同じ意味に用いられているが、
韓国ではその二つの言葉は区別されなければならない。
すなわち「怨」というのは他人にたいして抱く感情であり、
外部の何ものかについて抱く感情の塊である。
これにたいして「恨」はそうではない。
それはむしろ自分の内部に沈澱(ちんでん)していく情の固まりなのだという。
怨みは熱っぽく、復讐(ふくしゅう)によって晴れる。
だが恨は冷たく、解くことができない。怨みは憤怒であり、恨は悲しみだ。
怨みは火のように炎々と燃えるが、恨は雪のように積るだけである……。
〜(中略)〜
「恨」がさきの李御寧氏のいうように
「冷たく」、「雪のように」心のうちに積もりつづけているものであるならば、
それはいつの日にか晴らされることがあるのだろうか。
はたしてどのようにして鎮めることができるのであろうか。
そしてこの点において、韓国人の心に積もりつづける「恨」の感情は、
日本人の崇(たた)りと鎮魂にもとづく心性および感情とは
性格を異にしているといわなければならない。
それが私の目には、日韓両国民のあいだに、
あたかも融和しえない文化の障壁のように立ちはだかってみえるのである。』
両先生とも、おそらく同じことを指摘されているものと、自分なりに理解しています。
「自らの不幸を嘆く気持ち」と「諦めの境地」
「心に積りつづける恨の感情」と「祟りと鎮魂にもとづく心性および感情」
こうした日韓両国民の文化の違いは、
果たして乗り越えることができるのでしょうか?
また、それはどうしたら乗り越えることができるのでしょうか?
いろいろと考えてしまいます…。
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