しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

人間学の要諦(その1)

『修身教授録』(森信三著:致知出版社)を読了しました。

読後の感想として、
この本に若くして出会えていたならば、
私の人生も、もう少し「まっとうな」人生になっていたような気がします。

さて、この本は、第1部40講、第2部39講で構成されていて、
それぞれ素晴らしい「人間学の要諦」が書かれていますが、
私が最も感銘を受けたのが、「下座行」という講義と「最善観」という講義です。
少し長くなりますが、その真髄部分を原文そのままに引用させていただきます。

まずは、「下座行」から…。

『さて、下座行とは、先にも申すように、
 自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。
 言い換えれば、その人の真の値打ちよりも、二段、三段下がった位置に身をおいて、
 しかもそれが「行」と言われる以上、いわゆる落伍者というのではなくて、
 その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。
 そしてそれによって、自分の傲慢心が打ち砕けるのです。
 すなわち、身はその人の実力以下の地位にありながら、
 これに対して不平不満の色を人に示さず、
 真面目にその仕事に精励する態度を言うわけです。
 つまり世間がその人の真価を認めず、
 よってその位置がその人の真価よりはるかに低くても、
 それをもって、かえって自己を磨く最適の場所と心得て、
 不平不満の色を人に示さず、わが仕事に精進するのでありまして、
 これを「下座を行ずる」というわけです。』

次に「最善観」から…。

『すなわち、神とは、この大宇宙をその内容とする根本的な統一力であり、
 宇宙に内在している根本的な生命力である。
 そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、
 これを神と呼ぶわけです。
 かく考えたならば、わが身にふりかかる一切の出来事は、
 実はこの大宇宙の秩序が、そのように運行するが故に、
 ここにそのようにわれに対して起きるのである。
 かくしてわが身にふりかかる一切の出来事は、その一つひとつが
 神の思召であるという宗教的な言い現し方をしても、なんら差し支えないわけです。
 すなわちこれは、道理の上からもはっきりと説けるわけです。
 そこで、今私がここで諸君に申そうとしているこの根本信念は、
 道理そのものとしては、きわめて簡単な事柄であります。
 すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、
 そのすべてが、この私たちにとって絶対必然であると共に、
 またこの私にとっては、最善のはずだというわけです。』

私は以前から、「宇宙」と「神」との関係を
どのように関係付けて理解すればよいのか分かりませんでしたが、
森先生の「最善観」を読んで、真理の一端に触れたような気がします。

いずれにしても、
人生の真理が、平易な文章でありながらも迫力を持って書かれています。
背筋をピンと伸ばさなければ、読むことができません。

今日はこのあたりにして、
明日も、この本の中の名言・名文を拾い出して書き残そうと思っています。
おっと……。思い出した……。
森先生は、「その日になすべきことは、決してこれを明日に延ばさぬこと」と
「一日の意味」という講義で述べられていました。

意志が弱い私をお許しください……。

修身教授録 (致知選書)

修身教授録 (致知選書)