『修身教授録』(森信三著:致知出版社)の続きです。
今日は、第2部39講の中から、名言・名文を拾い出してみました。
・そもそも世の中のことというものは、真実に心に願うことは、
もしそれが単なる私心に基づくものでない以上、
必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものである。
このことは、これを信ずる人には、必然の真理として実現するし、
これを信じない者には、単に一片の空言として終わる。(第2講「立志」)
・真の精神は不滅であり、いかに凡人といえども、
その生涯を深い真実に生きたなら、必ずやその死後、
何らかの意味でその余韻を残している。(第3講「人生二度なし」)
・そもそも真実の教育というものは、自分の失敗とつまづきとを、
後に来る人々に、再び繰り返さすに忍びないという一念から起こると言ってもよい。
(第4講「生命の愛惜」)
・人生の真の意義は、その長さにはなくて、実にその深さにあると言ってよい。
(第10講「三十年」)
・自分が現在なさなければならぬ事以外のことは、
すべてこれを振り捨てるということと、なすべきことに着手するということは、
元来、一つの事の両面とも言うべきであって、
この点は、おそらくわれわれが仕事をし果たす上で、一番の秘訣かと思う。
(第15講「一時一事」)
・真の修養というものは、人間が自己の生命に徹して生きようとする態度であり、
したがってそれは、これを内面からいえば、限りなく求めてやまない心の外にはない。
(第23講「卒業後の指導」)
・人間も五十をすぎてから、自分の余生の送り方について迷っているようでは、
悲惨と言うてもまだ足りない。そこで一生を真に充実して生きる道は、
結局今日という一日を、真に充実して生きる外ない。
一日が一生の縮図である。(第36講「一日の意味」)
・人間というものは情熱なくして偉大な仕事のできるものではない。
真に力のある生きた思想というものは、偉大なる情熱が、
しだいに澄みゆくところに生まれるものであって、
情熱を伴わない理性というようなものは、真の理性ではなくて、
単にこざかしい理屈にすぎない。(第37講「ペスタロッチー」)
・人間の言葉が真に力を持つのは、
必ずしもその言葉自身が立派だからというのではなくて、
その言葉を支えている背後の生活によるものである。(第38講「置土産」)
・生まれたものには必ず死ぬ時があり、来た者には必ず去るべき時がある。
また会うた者は必ず分かるべき時のあるのは、
この地上では、どうしても免れることのできない運命と言ってよい。
同時にもしそうだとしたら私達も自分が去った後の置土産というものについても、
常に心を用いる所がなくてはならぬ。(同上)
「真実に心に願うことは、必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものである。」
という森先生の言葉は、まるで坂村真民先生の「念ずれば花ひらく」のようです。
偉大な人が発する言葉というものは、共通するものがあると感じた次第です。
また、「人間も五十をすぎてから、自分の余生の送り方について迷っているようでは、
悲惨と言うてもまだ足りない。」という言葉には、ちょっと落ち込んでしまいました。
この「老いじたく日記」を書き始めたのが、少し遅すぎたようです。
三日間にわたって、本の感想やら名言やらをメモしてきました。
「自己の生命に徹して生きようとする態度」には、
一生到達できないかもしれませんが、
「会う人皆師匠」、「日々是勉強」という心構えだけは持ち続けていたいと思います。