しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

心情の発露

『増補 靖国史観〜日本思想をよみなおす』(小島毅著:ちくま学芸文庫)を読了しました。

靖国神社」について、あまりにも知らない事実が多いことに愕然としました。
たとえば、次のような記述です。

靖国神社は「日本国のために心ならずも戦場で散った人たちを追悼する施設」
 ではない。
 あくまでも「天皇のためにみずから進んで死んでいった戦士を顕彰する施設」
 なのである。
 ここには「朝敵」は祭られないので、戊辰戦争西南戦争の「賊軍」の戦死者は
 対象にならないのだ。「英霊」とは「官軍」の従事者に限られるのである。

・国体とは、単に天皇を君主として仰ぐ体制ではない。
 そうではなく、「天祖の神勅」を奉じる天皇を君主として仰ぐ体制なのである。

靖国神社を奉じる側にとって、「天皇陛下のために戦って死ぬこと」は
 神聖なる国体にわが身を捧げ、これに帰一することだった。
 少なくとも、そう宣教されていた。
 天皇が村の駐在さんと同じく、単なる国家機関では困るのである。

靖国神社がほかの一般的な神社と比べて本質的に異なる点は、
 ご本尊がいないことである。

靖国神社に祭られる英霊とは、天皇のために戦った(ことになっている)陣没者や
 天皇のために政治的に犠牲になった人たちのことである。

・「官軍」と「賊軍」の区別。これが靖国の原点である。

・「日本人なら靖国に祭られる英霊に敬意を懐いて当然」。
 この独善的言説が幅をきかせばきかすほど、靖国問題はこじれていく。
 その起源はすでに「勝ったがゆえの官軍側犠牲者」を祭りはじめた時点で、
 この神社が背負う業のようなものであった。

靖国神社という装置もまた、王家のために設けられながら
 「日本」を表看板としている。
 天皇のために戦った軍人たち〜正確にいえば、天皇の意向であると
 自称する勢力に殉じた人たち〜が、
 日本のための尊い犠牲であると論理的にすり替えられ、
 その行為を顕彰する目的で創建されたのが、この神社なのだ。

史観」という言葉の本質も、
この本の次の「解説」を読んで、改めて認識することになりました。

『歴史を描く上で無限の材料足りうる人類の歩みのなかから、
 いかなる事象を語るに値する史実として選ぶのか、
 その選択の尺度こそが史観と呼ばれるものの本質である。』

さて、その「靖国神社」ですが、
私が大学に入学する際、上京していた母と一緒に、
都内観光の一環で参拝したことがあります。

都会の喧騒のなかでも、「その場所」だけは荘厳であったと記憶しています。
それ以来、参拝していませんが、是非もう一度参拝したいと思っています。

この本を読んだ後でも、
おそらく私は、「その場所」ではこうべを垂れ、手を合わすと思います。
英霊」であるかどうかに関わらず、
戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、
心からの哀悼の意を表すという意味においては、
私個人の心情の発露の問題であると理解しています。