最近、朝日新聞デジタル版で、
鷲田清一さんの「折々のことば」を読むのが日課になっています。
全文で220文字余りの凝縮された文章のなかに、
綺羅星(きらぼし)のような言葉が並んでいて、
「天声人語」とはまた一味違った魅力があります。
その今日の「折々のことば」は、香月泰男さんの次のような言葉でした。
『1瞬に1生をかけることもある。1生が1瞬に思える時があるだろう。』
恥ずかしながら、香月泰男さんという人を今回初めて知りました。
さっそくウィキペディアで調べてみると、
その時の体験が、その後の作品全体の主題・背景になったとのことで、
没後、遺族からシベリア・シリーズの作品が山口県に寄贈・寄託され、
同作品は山口県立美術館に展示されているそうです。
そして、この香月さんの「ことば」について、
鷲田さんは、香月さんの手書き、横書きの文章は、
「1」がまるでくさびを打つかのように映るとして、
次のように解説されていました。
『香月の画業のすべてはシベリア抑留中に目にし、
経験した非業と非情への問いかけとしてしかありえなかった。
人にはどうしても消せない一点、癒えない一点があって、
時とともに語り口は変わっても、
ついに同じ一つの〈傷〉を際限なく反芻(はんすう)するほかないものなのか。』
では、私にとっての「消せない一点、癒えない一点」は何なのか?
自問してみても、たくさんあり過ぎて困ってしまいます。
ただ、香月さんのように
「経験した非業と非情への問いかけ」としての極めて重い「一点」ではなく、
私の場合は、とても軽々しい「一点」の集合体でしかありません…。
極限状態に置かれた場合には、真っ先に自分を失いそうです…。
そんなことを考えながら今日の記事を読んだ次第です。