今月20日の読売新聞「編集手帳」を読んで、
大学受験の際しての、ほろ苦い体験が甦ってきました。
『千葉県内の公立高校で入試当日の朝、電車を乗り間違えた受験生である。
JR京葉線の南船橋駅ホームで「もう間に合わない」と途方に暮れた。』
コラムにはこのように書かれていて、
私も同じような体験をしたことを思い起こしたのです。
現役の時、私は同級生二人と仙台にある某国立大学を受験しました。
JR予讃線や新幹線を乗り継ぎ、やっとのことで東京駅に到着…。
上野駅に向かうために山手線に乗ったものの、
なかなか「次は上野…」という車掌さんのアナウンスがありません。
そわそわしていた私たちに気が付いたのか、
前に立っていた親切な乗客の方が、乗り間違いを指摘してくれました。
慌てて逆方向の山手線に乗り換えたものの、
予約してあった仙台行きの特急列車には間に合いませんでした。
やむを得ず次の特急列車に乗ることになりましたが、
当然のことながら満席状態で、私たちは仙台に着くまでほとんど立ちっぱなしでした。
この件で小心者の私は、気持が動転したのかどうか分かりませんが、
受験の結果はあえなく不合格となりました。(同級生二人は見事に合格しました。)
先ほどのコラムに登場したお二人は、
電車の車掌や駅長さんの「人の情け」の下で、
試験開始には間一髪で間に合ったとのことでしたが、
きっと幸運の女神にも助けられて、無事合格されていることと思います。
『青春はみづきの下をかよう風あるいは遠い線路のかがやき』
高野公彦さんの、この味わい深い一首が紹介されていたコラムは、
『青ざめた春の記憶もまんざら捨てたものではない。』と結ばれていました。
さて、私がもしあの時、仙台行の特急電車に間に合っていたら、
その後の人生はどうなっていたのか……。
人生って、つくづく不思議なものだと思います。