しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

夢と現実の世界

奔馬豊饒の海・第二巻』(三島由紀夫著:新潮文庫)を読了しました。

う〜ん、頭が混乱してきました。
夢が現実なのか…?それとも、現実が夢なのか…?

松枝清顕の死後、十八年が経過して、
本多繁邦が、清顕の夢日記を回想する場面の次の記述は、
特に心に残りました。

『もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、
 夢と現実とは等価のものになってゆく。
 かつてあった、ということと、かくもありえた、
 ということの境界は薄れてゆく。
 夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似していた。

 ずっと若いときには、現実は一つしかなく、
 未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、
 年をとるにつれて、現実は多様になり、
 しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。
 
 そして過去の変容は
 ひとつひとつ多様な現実と結びついているように思われるので、
 夢との境目は一そうおぼろげになってしまう。
 それほどうつろいやすい現実の記憶とは、
 もはや夢と次元のことならぬものになったからだ。』

また、この本の解説では、
豊饒の海」の着想は、「浜松中納言物語」によるもので、
『四部作をつらぬいている軸は、
 まさに「確乎不動の現実に自足」しようとする考え方への、
 夢のがわからの挑戦である、といってよい。』と記されていました。

本当に、夢は「いやちこ」になるものなのでしょうか…?

そのほか、清顕の生まれ変わりである飯島勲
心を刺したという陽明学の死生観、
すなわち、「身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり」という一句も、
忘れることができない記述となりました。

陽明学には、「知行合一」のほかにも、このような「死生観」があったのですね。

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)