『暁の寺〜豊饒の海・第三巻』(三島由紀夫著:新潮文庫)を読了しました。
う〜ん、訳が分からないというか、とても難解な本でした。
特に、本多繁邦が戦時中に余暇を輪廻転生に充てたという記述のうちの、
「唯識」という概念です。
例えば、この本の題名「暁の寺」が当登場する、次のような文章です。
『さるとても唯識は、一旦「我」と「魂」を否定した仏教が、
輪廻転生の「主体」をめぐる理論的困難を、もっとも周到精密な理論で切り抜けた、
目くるめくばかり高い知的宗教的建築物であった。
その複雑無類の哲学的達成は、あたかもあのバンコックの暁の寺のように、
夜あけの涼風と微光に充ちた幽玄な時間を以て、
淡青の朝空の大空間を貫いていた。
輪廻と無我との矛盾、何世紀も解きえなかった矛盾を、
ついに解いたものこそ唯識だった。
何が生死に輪廻し、あるいは浄土に往生するのか?一体何が?………。』
この本の解説によると、
三島が死を決意したのを、正確に指摘することは誰にも不可能だけれども、
彼がこの「暁の寺」に着手し始め、
やがて完結するまでの期間が、この事件遂行(割腹自刃)にとって、
決定的な意味を持つ時間であったことは、疑いようがない、
このように指摘されています。
う〜ん、ということは、
「死の決意」と「唯識思想」には関連があったということなのですか…?
私には、全く持って理解不能の世界です。
『唯識の本当の意味は、われわれの一刹那において、
この世界なるものがすべてそこに現れている、ということに他ならない。
しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現れる。』
何回も、この文章の意味を理解しょうとしましたが、結局諦めました。
話題を転じて、この本には、短文な箴言が盛りだくさんでした。
そのうちの幾つかを書き残しておきます。
・何かにつけて青年が未来を蝶々するのは、
ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしていないからにすぎない。
・天災地変は別として、歴史的生起というものは、
どんなに不意打ちに見える事柄であっても、実はその前に永い逡巡、
いわば愛を受け容れる前の娘のような、気の進まぬ気配を伴うのである。
・成功にあれ失敗にあれ、遅かれ早かれ、
時がいずれは与えずにはおかぬ幻滅に対する先見は、
ただそのままでは何ら先見ではない。
それはありふれたペシミズムの見地にすぎぬからだ。
重要なのは、ただ一つ、行動を以てする、死を以てする先見なのだ。
・転生のもっとも深い心理的源泉は「恍惚」。
・この世には道徳よりもきびしい掟がある。
・真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ生まれる。
・怠惰の言訳としてしか言葉を使わぬ人間がいる。
・人は望ましいことの予兆なら決して見逃さないものだ。
・必要から生まれたものには、必要の苦しさが伴う。
ふぅ〜、疲れました。今回はここまでとします。
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1977/11/01
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