『天人五衰〜豊饒の海・第四巻』(三島由紀夫著:新潮文庫)を読了しました。
意外な結末でした…。
自分の死期を悟った本多繁邦が、60年ぶりに奈良の月修寺へ、
綾倉聡子を訪ねたところ、
聡子は、「松枝清顕という人は名前も聞いたことがない」と言う…。
さらに、本多が「60年前ここへ上がった記憶がある」と言うと、
聡子は次のような言葉を返す。
『記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、
それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに』
う〜ん…??
ということは、繁邦のセリフではないけれど、
私の記憶というものは「幻の眼鏡」であり、
今、起こっていることも夢で、
私という存在もないというのが現実の世界なのですか…??
とにかく全四巻を通じて、難解な本でした。
そして今、全四巻を思い起こすと、本多繁邦の次の言葉が心に残っています。
『今にして本多は、生きることとは老いることであり、
老いることこそ生きることだった、と思い当った。
この同義語がお互いにたえず相手を謗って来たのはまちがいだった。
老いてはじめて、本多はこの世に生れ落ちてから八十年の間というもの、
どんな歓びのさなかにもたえず感じてきた不如意の本質を知るにいたった。
歴史はこのことを知っていた。
歴史は人間の創造物のうちでもっとも非人間的な所産だった。』
『この庭には何もない。
記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。』
「天人五衰」の入稿日である1970年11月25日に
三島由紀夫が割腹自殺してから今年でちょうど45年。
「豊饒の海」という、難解でしかも謎の多い作品を通じて
三島由紀夫は何を私たちに訴えたかったのか……。
おそらく10年後に再読しても、私には理解できないような気がします。
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1977/12/02
- メディア: ペーパーバック
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