風が少し冷たかったものの、穏やかによく晴れた一日となり、
私と妻は、それぞれの実家のお墓参りに行きました。
さて、『外交敗戦~130億ドルは砂に消えた』
(手嶋龍一著:新潮文庫)を読了しました。
130億ドル、国民ひとりあたり実に一万円もの国家予算を投じ、
クゥェート政府が発表した感謝国リストに存在しなかった日本……。
著者が若手外交官が語ったとして引用した、次の言葉が印象に残っています。
『税金の無駄遣いだと評判の良くない日本のODA・政府開発援助でも、
送られた国の人々はそれなりの敬意を払ってくれる。
だが、湾岸戦争の財政貢献は世界中のほとんど誰からも感謝されず、
評価もされなかった。
町内会のお祭りでも、神輿も担がず、
飾り付けにも加わろうともしない金持ちの家が一軒や二軒必ずあるものだ。
そういう家ほど、すべてを喜捨で済まそうとする。
町内の人たちは集金には来るかもしれないが、
誰ひとりとして尊敬しようとはしない。』
う~む、非常に分かりやすい例えです。
このほか、ブレイディ米国財務長官と橋本龍太郎大蔵大臣の差しの会談で、
日本の90億ドルの拠出が決まったものの、
この90億ドルが、「全額アメリカに渡されるのか、
他の多国籍軍にも配分されるのか」「拠出はドル建てか、円建てか」といった、
核心部分が煮詰められていなかったという事実にも愕然としました。
どうしてそんなことになったのか。
著者は、日米の蔵相会談から、駐米大使が排除されるという異常さについて、
次のように指摘しています。
『湾岸危機という未曽有の暴風雨にさらされると、
日本は、内に抱え込んでいた二元外交の弊害をあえなく露呈する。
多国籍軍への財政支援をめぐる日米間の折衝で、
交渉の窓口が外務省と大蔵省に跛行してしまったのである。
これによって、日本の外交は縦深性を失っていった。』
この本を読んで、同盟関係を維持することの困難さ、
国際貢献の意義と意味などについて、考えさせられました。
湾岸戦争における「外交敗戦」の教訓は、
その後の日本の外交に生かされているのでしょうか?
少なくとも、国際社会においては、財政貢献だけでなく、
「汗を流す」ことが必要なのがよく分かりました。