昨日24日の日経新聞「風見鶏」は、
『検証なき国は廃れる』というタイトルの記事でした。
市場の競争にさらされる企業は、
失敗から教訓を学び、生かさなければ、廃れてしまいます。
この点は国も同じなのだけれども、
日本はなぜか、失敗を深く分析し、次につなげるのが苦手だとして、
記事では、「小切手外交」とやゆされた1991年の湾岸戦争、
外交だけでも、検証すべきできごとはたくさんあると指摘しています。
ところが、元幹部を含めた複数の外務省関係者によると、
これらを正式に調べ、総括したことはないらしく、
多くの人が原因にあげるのが、次の2点であると記事には書かれていました。
①日本人の性格上、失敗の責任者を特定し、批判するのを好まない。
②これからも同じ組織で働く上司や同僚の責任を追及し、
恨まれたくないという心理がみなに働く。
そのうえで、日本の組織には、外務省に限らず、多かれ少なかれ、
こうした「ムラ的」な風土があると指摘していました。
はぃ、確かに、日本の組織の「ムラ的風土」については、
これまでも、名著『失敗の本質』をはじめ、
いろいろな書物で、その問題点が指摘されていたように記憶しています。
ただ、最近では、国や地方自治体のレベルであれ、民間企業のレベルであれ、
重大な事件や事故が起こったときには、第三者委員会等の客観的な組織を立ち上げて、
失敗の要因を詳細に検証しようとするのが
当たり前になってきたのではないかと私は思っていました。
それでも、今回の記事のように指摘されるのは、
①第三者委員会には強制力がないことが多く、事件・事故の真因まで迫れない。
②立派な調査報告書を作成してもその場限りで、
時間が経つにつれ人々の記憶から薄れしまい、次につながらないことが多い。
このどちらか、あるには双方に原因があるのではないかと思います。
『日本は先の大戦で、自国民だけで約310万人の命を失った。
再び、国策を誤ることはないのか。国の検証力の貧しさを考えると、不安になる。』
記事の最後は、このように書かれていました。
私は、「検証力の貧しさ」というより、
「記憶力と継承力の貧しさ」のような気がします。