昨日のこの日記で、九重親方の悲報に関し、
『私の中の「昭和」が、また一つ消えてしまいました…。』と書きました。
喪失感といえば大げさかもしれませんが、
それに近い気持ちで日経新聞「電子版」を読んでいると、
一条真也さんが、次のようなことを書かれているのを見つけました。
『ユダヤ教のラビ(指導者)でアメリカのグリーフ・カウンセラーである
E・A・グロルマンの言葉を、わたしは次のようにアレンジしました。
・親を亡くした人は、過去を失う。
・配偶者を亡くした人は、現在を失う。
・子を亡くした人は、未来を失う。
・恋人・友人・知人を亡くした人は、自分の一部を失う。』
そうか、そうだったのか…。
私と同学年の九重親方の逝去は、知人・友人ではもちろんないけれど、
それに近いものがあり、「自分の一部を失う」ような感覚なのだと気がつきました。
それにつけても、このグロルマンの言葉は、胸を打つものがありました。
一条さんがアレンジする前の言葉はどんなものなのか気になって、
さらにネットで調べて見ると、
医師の日野原重明さんが、次のように書かれているのを見つけました。
『リンカーンの手記が収録されている「愛する人を亡くしたとき」を著した
E.A.グロルマン(アメリカ、1925年)は、
ユダヤ教のラビでもありますが、「愛児を失うと親は人生の希望を奪われる。
配偶者が亡くなると、共に生きていくべき現在を失う、
友人が亡くなると、人は自分の一部を失う。
親が亡くなると、人は過去を失う」と記しています。』
『子どもは成長していく存在ですから、
成長する子どもを見ると、将来を思い描く夢をもつことができます。
ところが、未来に成長するはずの子どもを亡くすと、
親は自分の未来もともになくしてしまうというのです。』
『配偶者の場合には、共に生きている現在を、
友人を亡くすと人は自分の一部を、
親が亡くなると、これまで育ってきた自分の過去までが消えてしまう。
どれも深い意味を持っています。』
う~む、なるほど…。
これによると、昭和60年1月に、
親友が交通事故で亡くなったときには、私は「自分の一部」を失い、
平成8年7月に母が亡くなったときには、
私は「過去」を失い、そして父は「現在」を失ったことになります。
先ほどの日野原さんは、
『前述のグロルマンの言葉にあるような「愛する人を亡くしたとき」には、
どういうように自分を支えていけばよいのかということを、
めいめいは考えなくてはならないと思います。』と述べられていました。
母が亡くなった時もそうでしたが、
精神力が弱い私は、自分を支えていくような自信はなく、
「そのとき」の自分のことを考えたくないのが正直な気持ちです。