昨夕、迎え火を焚いたことで、今年もお盆がやってきたことを実感します。
今日は、そのお盆に関する日経新聞の二つの記事を読んで、
いろいろと考えるところがありました。
その一つは、「文化欄」に掲載された哲学者・鷲田清一さんの
『閉ざした口のその向こうに』というエッセイの文章です。
『お盆前後の半日、両家の墓に参る。若い頃は墓参りは両親にまかせていたが、
いまはわたしたち夫婦以外にその務めをする者がないから、
空いている日を見つけ墓所を訪ねるのが、この季節の習いになっている。
~(略)~
若い頃は逆だった。
なぜこの日に、そしてこの日にかぎって厳粛な気持ちになるのか。
そこに、大人たちのうさんくささを嗅ぎつけ、
あえてその日を特別な日にしないぞと、家族の墓参りには同行しなかった。
できるだけ普段どおりを装うようにしていた。
これが十代の頃の、わたしなりの「大人」たちへの不同意のかたちであった。』
特別な日にあらたまって何かに思いをいたす。
かわりに普段は平気でそれを忘れている。
普段は弔いの思いもない者がその日だけ手を合わせる、線香を焚く、
そんなふうに形だけ整えるのを、偽善と感じたのだろう。
「あらたまる」というのは、日々の思いがあってこその、
その思いの凝集であるはずだと。』
十代の頃の鷲田さんのお気持ち、私にもよく分かります。
子どもの頃は、「偽善」に敏感ですから…。
二つ目は、一面コラム「春秋」の次の文章です。
「御先祖になる」と言う古老に会って驚いた。久々に聞く古い物言いだったからだ。
君は一家を構えて初代となる。家を栄えさせる力がある。
早く立派な大人になれと、明治の大人は子供を励ましていたそうだ。
柳田は宣言を「古風なしかも穏健な心掛」(「先祖の話」)と感心する。
膨大な戦死者の魂はどこへ行くか。家はどうなるのか。
危機を感じた柳田には「先祖になれるか」は切実な問題だった。
様子はあまり変わっていないのかもしれない。
過疎化が進み、消える恐れのある市町村も増えている。
御先祖様への道は狭くなった。
お盆に山のかなたから帰っても、迎える家がないのでは寂しすぎる。』
このコラムに書かれていることは、私にとっては「切実な問題」です。
長男である私の直系の子孫は、娘と孫娘の二人しかいません。
私たち夫婦が亡くなった後、「自宅」と「お墓」はどうなるのか……。
自宅がなくなり、さらにお墓が無縁墓になってしまうと、
コラムに書かれているように、
お盆に私は、あの世から帰ってくる場所がありません……。
今のうちに考えなければならない「切実な問題」です。