本日8日の愛媛新聞「現論」欄に、
佐伯啓思・京大名誉教授の『角栄ブーム~強力な政治家を待望か』
という論考が掲載されていました。
今日のような先の見えない時代には、「よっしゃ、よっしゃ」とばかりに、
すべて俺に任せろ型の強力な政治家が待望されるかもしれないけれど、
佐伯教授は、実際には「角栄の時代」とは、
実は「角栄的なもの」の終わりの時代だったと述べられています。
具体的には、田中氏が首相になったころ、
71年には米国でニクソン・ショックが起きて、
ドルを基軸とした国際経済が崩壊に向い、
73年には変動相場制へ移行し、戦後のブレトンウッズ体制が終了。
同じ年には石油ショックも起き、
世界中でエネルギーの確保が重要課題になったとして、
錬金術のようにカネを生み出し、カネの力で人々を動かすという田中政治は、
まさに栄光の頂点で奈落の底に落ちる運命にあった。
経済成長が生み出すカネの配分に人々は群がったが、
成長そのものがもはや可能でなくなっていた、と述べられています。
そして今日、米国主導の市場競争主義もグローバル化もほとんど行き詰まり、
世界経済全体が停滞の方向へ向かうなか、
日本ではあいもかわらず、「成長」のために、
さらなるグローバル競争や情報系の技術革新が叫ばれ、
超金融緩和でカネをばらまいている、ということを指摘されたうえで、
次のように論考を締めくくられています。
『どうやら、われわれは、再び、
40年前の状況に戻ってきているのではなかろうか。
カネをばらまくことで経済の成長と拡張を追求することそのものが
問われているのではなかろうか。
田中角栄のノスタルジーよりも、
日本において「ポスト田中」を改めて模索しなければならないのである。』
う~む……、佐伯教授のご指摘は理解できますが、
この考え方に対しては、私はいつも、
『富は先ずこれを創造してからでなければ分配できない』という
「経済上げ潮派」の方が使われる言葉を思い出します。
経済成長を目指し、その経済成長が生み出す富を分配することが
資本主義の使命でもあると認識しています。(違うのかな…?)
佐伯教授が指摘される「ポスト田中政治」の模索の先には、
果たして「答」は用意されているのでしょうか?