今日7日のYOMIURI ONLINE「名言巡礼」は、
長野県の旧制松本高校を卒業された小説家・北杜夫さんの
『漠とした憧憬。これこそ物事の始まりではなかろうか。』という言葉でした。
これは「どくとるマンボウ青春期」にでてくる言葉ということで、
記事には次のような解説がありました。
『「どくとるマンボウ青春記」は、敗戦が近い1945年6月、
松高の寮にもぐり込んでからの疾風怒濤の日々をユーモラスにつづる回想記だ。
信州の珍しい虫に憧れていた東京育ちの内気な理科少年、
斎藤宗吉を待っていたのは落第組の蛮カラ寮生。
彼らは真夜中に新入生を叩き起こし、人生の意義を問い、
どんな答えにもバカヤローと怒り、世の常識を覆し、哲学を熱く語った。
~(中略)~
「よほど面白かったのでしょうね。主人の青春は」。
妻、喜美子さん(79)にもよく松高の思い出を語った。
だが、当時は食糧難で、食うものはサツマイモやカボチャばかりだった。
結婚後も食卓にカボチャが並ぶと、困り顔で「昔、随分食べたから、
見るのも嫌だ……」。でも「青春記」にはこう記している。
【空腹だったから雑草まで食べたように、
精神的の飢餓が貪婪(どんらん)に活字を求めたのである】
人生に「もし」はない。しかし、もし、松高に進学していなかったら
作家、北杜夫の誕生はなかった。』
私の遠い記憶に間違いがなければ、
青春の時期はとっくに通り過ぎたと思われる29歳の時、
職場の同僚のO・Kさんから、単行本の「どくとるマンボウ青春期」を、
入院のお見舞いとしていただきました。(いや、確かにいただいたはずです…。)
でも、本の内容はすっかり忘れてしまっているし、
肝心の本そのものが今は私の手元にありません。
いったいどこへ行ってしまったのでしょう……?
それにしても、「漠とした憧憬」は良い言葉ですね……。
「漠然としたあこがれ」を持つことが人生にとってどんなに素晴らしいことか、
この年になってようやく分かるようになりましたが、
その「漠とした憧憬」も、本と一緒にどこかに行ってしまったように思います。
今になって、青春の時期を通りすぎ、しかも病床にある私に、
この本を贈ってくれた同僚O・Kさんの真意が、
こちらも「漠然」と理解できるような気がしています。