昨日の続きです。
倉田百三の『学生と読書~いかに書を読むべきか』という作品を見つけました。
そこには、人間教養のための読書について、次のように書かれていました。
『 ~(略)~ がここでは特に人間教養のための読書に重点をおいて説述したい。
それは職能の何たるを問わず、
何人もその人格完成を願い精進しなければならないからである。
私は青年学生が人生の重要問題に関する自らの「問い」をもって
読書することをすすめたい。生に真摯であれば「問い」がないはずはない。
そして「問い」こそ自発的に読書への欲求を促すものである。
法然はその「問い」の故に比叡山で一切経をみたびも閲読したのである。
書物は星の数ほどある。しかしかような「問い」をもってたち向かうとき、
これに適切に答え得る書物はそれほど多いものではないのである。
むしろそのはなはだ少ないのに意外の感を持つであろう。
かくして「問い」はおのずと書物を選ばしめる。
自らの「問い」なくして手当たり次第に読書することは、
その割合いに効果乏しく、また批判の基準というものが立ちがたい。
自ら問いを持ち、その問いが真摯にして切実なものであるならば、
その問いに対する解答の態度が同様なものである書物を好むであろう。
まず問いを同じくする書物こそ読者にとって良書なのである。
かような良書の中で、自分の問いに、深く、強く、
また行きわたって精細にこたえてくれる書物があるならば、
それは愛読書となり、指導書となるであろう。
かような愛読書ないし指導書は一生涯中数えるほどしかないものである。』
う~む………。(絶句) この文章を読んで、愕然としました。
61歳になった私は、
上述の基準に該当するような「愛読書」や「指導書」を持っていると言えるのか?
実は、私は死ぬまでに、感銘を受けた本の、「ベスト100」はとても無理にしても、
せめて「ベスト30」ぐらいのリストは作りたいと、かねがね思っていました。
でも、それも無理なように思えてきました。
真摯で切実な自らの「問い」なしに読書をしているからかもしれません。(反省)
いろいろと「読書」や「良書」について考えた二日間でした。
あぁ~、それにしても「人生の真理の探究の道程」は、かくも険しいものとは……。