しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

現状追認の無限ループ

今月19日の朝日新聞デジタル版「政治断簡」に掲載された

『嗤われたら笑い返せ』というコラムの中に、

政治学者・丸山真男の言葉を引用した、次のような記述がありました。

 

『嗤われるのは、数の力という「現実」に抗し、理念や理想を語る者。

 所与の現実から最大限の利益を得ることに腐心する「現実主義者」にとって、

 理想なんて1円にもならないキレイゴトだから。しかし……。現実ってなんだ?

 「現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。

 現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません」

 (丸山真男『「現実」主義の陥穽』)

 そのように捉えられた現実は、容易に「仕方がない」に転化する。

 こうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に食い入り、

 日本の「現実」を泥沼に追い込んだか。丸山はこう、言葉を継ぐ。

 「ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのも

 まさにこうした『現実』観ではなかったでしょうか」

 既成事実への屈服が、さらなる屈服を生む。

 対米追従は仕方ない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない……。

 現状追認の無限ループ、そんな「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?

 嗤われたら笑い返せ。現実は「可能性の束」だ。

 私もあなたも一筋の可能性を手に、この世に生まれてきたのだ。』

 

このコラムそのものは、トランプ大統領と安倍首相の二人が、

「嗤(わら)う」が板についている点で「類」だということが書かれたものでしたが、

「現実たれということは、既成事実に屈服せよということにほかならない」

という丸山氏の言葉が、妙に頭から離れませんでした。

 

でも、果たして「既成事実という現実」は、

容易に「仕方がない」に転化するものなのでしょうか?

そこのところの実感が湧きません……。

なお、念のため、丸山真男の『「現実」主義の陥穽』の原文は、

『現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき

それは容易に諦観に転化します。』と限定的に書かれています。

『現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、

他面で日々造られて行くもの』という、

「現実のプラスティックな面がある」ことが記事では書かれていません。

 

そして、コラムのタイトルにある「嗤う」と「笑う」の相違。

ネットの辞書で調べると、「笑う」は「うれしさなどで顔を柔らげ声を出す意」で、

「嗤う」は「あざける。嘲笑するの意」という解説がありました。

 

この違いを知って、また考え込んでしまいました。

「嗤われたら笑い返す」ことで果たして済まされるものなのでしょうか?

私には、イマイチ、記事の意図するところが理解できませんでした。

ひょっとしたら、この私が、

「現状追認の無限ループ」に陥っているのかもしれません。