今日24日の朝日新聞「折々のことば」は、
哲学者・戸田山和久さんの
『つまり、知らないことがあること自体を知らなかったわけだ。』という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『人は学ぶ前に、つい、こんなの勉強して何になるの、と問う。
が、学ぶことの意味は、じつは学んだ後でしかわからない。
世界には、自分が知らない領域が「想像をはるかに超えて広がって」いることを
これまでろくに知らなかったと思い知ること、
つまり「無知の無知の知」こそ〈教養〉というものだと、哲学者は言う。
エッセー「とびだせ教養」(「ちくま」4月号)から。』
この解説を読んで、甥っ子(先日結婚した甥っ子の弟です。)が、
まだ小さかったころに、
「ねぇ、おじちゃん…。僕はどうして勉強しなければならないの?」と私に尋ねて、
その問いに対する答えに窮したことを思い出しました。
(この日記にも以前、そのことを書いたことがあります。)
その甥っ子も、社会人となって二年目となり、
職場には後輩社員もできて、日々の仕事に励んでいるようです。
鷲田さんがご指摘のように、甥っ子も、
学ぶことの意味が、社会人になってから徐々に分かってくるのかもしれません。
だって、「卒業だ。就職も決まった。さぁ、勉強しよう!」という
有名なキャッチコピーもありますから……。
あっ、そうそう…、そういえば、先日の京都旅行の際に、
甥っ子が、『子どもの頃聞いたおじちゃんの言葉で、
「富士山が気高く美しいのは、すそ野が広いから…。
人間も同じで、幅広い教養がその人のバックボーンになる。」という言葉を、
今でも覚えているよ!』と言ってくれました。
私は、今でも覚えていてくれたことに驚くとともに、うれしい気持ちになりました。
(私が言ったのは、牧野富男・日大経済学部長(当時)の「受け売り」なんだけど…)
今度、お盆休みに甥っ子と会う時には、
今日の『「無知の無知の知」こそ〈教養〉というものだ』という
奥深い哲学者の言葉を、自分の言葉のように紹介してみたいと思います。(苦笑)