しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

失われた本来の日本人らしさ

『無私の日本人』(磯田道史著:文春新書)を読了しました。

深く感銘し、また、心が洗われた本でした。

 

本書は、「穀田屋十三郎」、「中根東里」及び「大田垣蓮月」という

江戸時代の三人の生きざま、

そして、その三人が持つ「無私の精神」を丁寧に描いていますが、

著者は執筆の動機を「あとがき」で次のように述べられていました。

 

『いま東アジアを席巻しているものは、自他を峻別し、

 他人と競争する社会経済のあり方である。

 大陸や半島の人々には、元来、これがあっていたのかもしれない。

 競争の厳しさとひきかえに

 「経済成長」をやりたい人々の生き方を否定するつもりはない。

 しかし、わたしには、どこかしら、それに入ってはいけない思いがある。

 「そこに、ほんとうに、人の幸せがあるのですか」という、

 立ち止まりが心のなかにあって、どうしても入っていけない。

 この国には、それとはもっとちがった深い哲学がある。

 しかも、無名のふつうの江戸人に、その哲学が宿っていた。

 それがこの国に数々の奇跡をおこした。わたしはそのことを誇りに思っている。

 この国にとってこわいのは、隣より貧しくなることではない。

 ほんとうにこわいのは、本来、日本人がもっているこのきちんとした確信が

 失われることである。ここは自分の心に正直に書きたいものを書こうと思い、

 わたしは筆を走らせた。』

 

なるほど、深い哲学ですか……。

私は、この三人のなかでも、大田垣蓮月の生きざまに強く心を打たれました。

それは「自他平等の修行」という、次のような「哲学」です。

『 ~(略)~ ところが、そのうち、そもそも自分というものに、こだわるから、

 そんな小さなことに悩み苦しむのではないか、と考えはじめた。

 自分などは、とるに足らない小さなものだ。

 自分の名誉を護るなどという心を一切ふり捨てて生きれば、

 つまらないことで苦しまなくてもすむのではないか。

 そもそも、自分の心身は人にいわれて腹を立てるほど、きれいなものでもない。

 むしろ、穢れている。もし、世の中が清らかであったなら、

 とても暮らしていけないであろう。つまるところ、自分にとって必要なのは、

 ーー自他平等の修行 なのではないか。心に自分と他人の差別をなくする修行を

 生涯つづけることではないか、と思い定めた。』

 

数学者で作家の藤原正彦さんが本書の「解説」で述べられているように、

「日本人の誇るべき、そして近年忘れられてきた美徳」というものを、

改めて考えさせてくれる、貴重な「名著」だと思います。

 

無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)