今日20日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、能芸評論家・戸井田道三さんの
『わたしには「生きがいを求める」というのがどうもうさんくさい気がします。
生命を軽んずる心がかくされているからです。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『「単なる生存」ではなくて、人として「意味ある生活」をしたいと考えるのは、
いのちというものへの傲慢(ごうまん)ではないかと、能芸の評論家は言う。
一つのいのちがここにあること自体が、他のいのちとの共生による一つの達成である。
だから人の「生存」を「役にたつとかたたぬとか計ってはいけない」と。
「生きることに〇✕はない」から。』
う~む、なるほど‥‥。とても奥が深いお言葉です。
私なぞは、何も考えることなく、
「生きがい」とか「生きざま」という言葉を平然と使っているように思いますが、
戸井田さんのお言葉によると、「いのちというものへの傲慢」になりかねないのですね‥‥。
ただ、そうは言っても、私は「生きがい」とか「生きざま」という言葉は好きだなぁ~。
だって、由紀さおりさんの歌にも、『生きがい』という名曲があるんだもの‥‥。
♬ もう別れてしまった二人なのに
遠くはなれてしまった二人なのに
私はあなたとしか 生きられない
それだけが 私のよろこび
それだけが 私の幸せなの
こうしたケースの「生きがい」には、
役に立つとか立たないとか、〇も✕もないような気がします。
私は、「意味ある生活」を求めることが、いかにも人間らしいと思うのだけど、
解釈の仕方が間違っているのかな??