昨日4日のWeb産経ニュース「正論」に、雪斎先生こと保守の論客、櫻田淳・東洋学園大学教授が、
『北朝鮮の恫喝に曝され、核の恫喝に屈すれば、日本は近代国家たり得ない』
という論評を寄稿されていました。雪斎先生の論評を読むのは久しぶりのような気がします。
論評の冒頭では、雪斎先生の次のような問い掛けがありました。
『日本列島を飛び越す2度のミサイル発射や6回目の核実験を経て、
この1カ月あまりの間、北朝鮮情勢の一層の緊迫が語られてきた。
日本にとって北朝鮮情勢に絡む「最悪事態」とは「朝鮮半島が火を噴き、
日本も火の粉を被(かぶ)る」事態を指すのか。
それとも「北朝鮮が核・ミサイル開発を成就させ、
絶えず日本が北朝鮮の恫喝(どうかつ)に曝(さら)されるようになる」事態を指すのか。
この点はきちんと考えておいた方が宜(よろ)しかろうと思われる。
一般的には、「最悪事態」は、前者の事態を以(もっ)て語られるかもしれないけれども、
日本の人々は、後者の事態を耐えることができるのであろうか。』
この問い掛けに対して雪斎先生が用意された答えは、次のような内容でした。
少々長くなりますが、とても大切なことが書かれていると思うので、この日記に残しておこうと思います。
『「北朝鮮から核の脅迫を受けながら生きる事態を甘受できない」のは、
米国だけではなく日本にとっても同じはずである。
北朝鮮は、彼らが米国の「追従勢力」の筆頭と見ているらしい日本に対しては
「日本列島四島を核爆弾で海に沈めなければならない」と既に威嚇している。
また、北朝鮮が核・ミサイル開発成就の暁には、その「核の恫喝」を米国に対してではなく、
まず日本に対して向けるであろうというのは、平凡な予測にすぎない。
具体的には、北朝鮮が「核の恫喝」を背景にして戦時賠償の名目で
10兆円を序の口として日本に要求するような挙に走ったとしても、それ自体は驚くに値しない。
それにもかかわらず、「平和主義」感情が横溢(おういつ)した日本では、
「北朝鮮から核の脅迫を受けたとしても、生きていられればいい」と反応する空気は残るのであろう。
こうした空気の上で事態がいよいよ切迫すれば、
「とにかく対話を」とか「対話を切り出さない首相が悪い」とかという声が
沸騰するであろうというのも、平凡な予測である。
しかし、そうした声が勝り、日本が「核の恫喝」に屈してしまえば、
その時点で日本は「近代の価値」を奉じる国家としての資格を喪失することになる。
それは、日本が「自らの『自由』の価値のためにすら闘わなかった」ことを意味するからである。
二十余年前、高坂正堯教授(国際政治学者)は、遺稿の中で「安全保障政策の目的は、
その国をその国たらしめている価値を守ることにある」と書いた。
高坂教授の認識を踏まえるならば「日本を日本たらしめている価値」とは、
近代以前の永き歳月の中で培われた「八百萬(やおよろず)の神々」の価値意識と、
近代以降に受容した「自由・民主主義・人権・法の支配」の価値意識の複合であるといえる。
「朝鮮半島の核」は、そうした価値意識に彩られた社会を
次の世代に残せるかということを、当代の日本の人々に問うているのである。』
う~む、なるほど‥‥。とても考えさせられる論評です。
私は、北朝鮮情勢に絡む「最悪事態」とは、当然のように、
「朝鮮半島が火を噴き、日本も火の粉を被る」事態だと思い、
それ以外の事態は考えたこともありませんでした。
ところが、この論評を読んで、「絶えず日本が北朝鮮の恫喝に曝されるようになる」事態があること、
そして、安全保障政策の目的が、「その国をその国たらしめている価値を守ることにある」ことを知りました。
その国の「価値」を次世代に残すために闘うこと、
これこそが「保守思想の要(かなめ)」であることを悟った次第です。
国だけではなく、個人も然りだと思います‥‥。