月日が経つのは早いもので、今日で11月も終わりです。
日経新聞で連載が続いていた文化人類学者・石毛直道さんの「私の履歴書」も
今日が最終回で、そこには次のようなことが書かれていました。
『 ~(略)~ 以前、農水省の事業で、民俗学者の宮本常一さんを中心に
全国の農山漁村の高齢者から生活史を聞き取る調査が行われ、私も参加した。
お年寄りが語る明治期の日常の食事はごはんと味噌汁と漬物ぐらい。
三菜までいっていない家庭が多かったのではないか。
昔の日本の食事は動物性たんぱく質と油脂が欠乏していた。
1980年ごろにバランスがよくなったが、その後は油脂の摂り過ぎになった。
今後も変化はするだろうが、ごはんと味噌汁という日本の食事は大事に残していきたい。
食文化を考察し、多様な食文化を尊重できること自体が豊かさの表れである。
飢餓を脱する、栄養を確保する、という面でしか食を捉えられない世界で
食文化の研究をするのは難しい。
私は食糧問題を考えるうえでも食文化の理解は重要だと思っている。
~(中略)~
豊かな食文化を守っていくためには、少々飛躍するが、人口を抑える必要があると考えている。
現在の世界の人口は70億人を超え、いずれ100億人を突破するといわれる。
養うには相当な資源とエネルギーが必要だ。
自然破壊、地球環境の変化で、食糧危機を招くかもしれない。
そんな状況になれば食文化を論ずるどころではなくなる。
未来を生きる人たちが、飢餓への恐怖を出発点に豊かな食を体験してきた私と
逆の道をたどらないよう願いたい。』
このお話しのなかの、「飢餓を脱する、栄養を確保する、という面でしか食を捉えられない世界で
食文化の研究をするのは難しい」という記述を読んで、父の話を思い出しました。
昭和3年生まれの私の父は今年89歳で、世代でいうと
「昭和一桁世代」、広くは「戦中派」に属するのではないかと思います。
その父は、戦時中や終戦直後の話題になると、「とにかく食べるものがなくて、
ひもじい思いをした。白いご飯が夢にまで出てきた。」と話すのが常で、
私は子どものころから、この話を何回も聞かされたものです。
これはまさに石毛さんのおっしゃる、父の「飢餓への恐怖体験」だと思います。
その父の世代に比べると、三食の心配をすることなく、これまで平和な世の中を生きてこられたのは、
その事実だけで幸せな世代だったのではないかと、改めて認識した次第です。
なにせ、飢餓からは「食文化」というものが生じることは決してないでしょうから‥‥。