昨日26日の朝日新聞デジタル版「耕論」は、『道徳どう教えれば』というタイトルで、
3人の有識者が、それぞれのお考えを披歴されていました。
いずれもごもっともなご意見でしたが、そのなかでも私は、
苫野一徳・熊本大学教育学部准教授の、次のような考え方に共感を覚えました。
『公教育で大切なことは、すべての子どもたちが自由に、生きたいように生きられる力を育むことです。
そのためには、互いの自由もまた認め合う必要がある。哲学ではこれを「自由の相互承認」と言います。
どのようなモラルを持っていても、それが他人の自由を侵害していない限りは認め合う。
この「ルール感覚」こそ学校で育むべきです。
この原則を踏まえれば、道徳教育をどうすればいいのかが見えるはずです。
例えば学校が決めた校則を、皆がより納得し、互いにより自由になるために作り直す、
といった経験を積むような教育です。
ところが道徳の学習指導要領では、ルールは「守ること」になっています。
日本では、「ルールは与えられ、無条件に従うもの」と考える人が多いですが、
本来は多様なモラルを持っている人たちが、互いに自由に生きられるために作り合うものです。
道徳教育も、本来はそのような市民社会や公教育の本質に立ち戻らなければなりません。
文部科学省が唱える「考え、議論する道徳」というコンセプトには賛成です。
でも教えるべき内容や項目が決まっていれば、それは茶番です。
意見を言いっ放しで、「答えはない」で終わってしまうことも望ましくありません。
争いを避けるために、時には「共通了解」を見いだし合うことが求められます。
そこで私は、もっと本質的な議論をするためにも、「哲学対話」や子どもたち自らが問いを立てて実行する
「プロジェクト型」の道徳教育などを提案しています。』
う~む、なるほど‥‥。
私が小・中学生の頃にも、週一回、「道徳の時間」があったように記憶していますが、
そこでどのようなことを先生から教わったのか、ほとんど思い出すことができません。
でも、よくよく考えてみれば、そもそも「道徳」という概念はあいまいで、
社会で生きていくうえでのマナーやルールというのは、
主として親から教えてもらうか、学校での集団生活を通じて、自然と身に付けてきたように思います。
今回、苫野准教授の「本来は多様なモラルを持っている人たちが、
互いに自由に生きられるために作り合うもの」という言葉に触れて、
道徳教育の目指すべき方向性が、私にもおぼろげながら見えてきたような気がしました。