昨日の日経新聞一面コラム「春秋」に、
仏教学者・鈴木大拙のことが、次のような内容で書かれていました。
『およそ偉人の名を冠した記念館のたぐいで、これほどモノのない場所は珍しい。
金沢市の鈴木大拙館である。世界的な仏教学者として知られ、著作も数多い。
しかし、モダンな建物内には書斎での写真や自筆の書が点々と配され、
来訪者は意外の感を持つかもしれない。 ~(中略)~
2011年秋に開館、昨年末までに30万人が訪れた。
今も年7万人ペースの来館者があり、4割は海外からという。
SNS(交流サイト)などで評判になっているらしい。
「長い時間、滞在されるのはたいてい外国の方」と館の人が教えてくれた。
確かに、ここには自国第一主義の遠ぼえも貿易をめぐるきしみも届かない。
水や風の音を耳にし、自分を包むゆったりとした時間と向き合うとき、
国や宗派を超え、感じ取れる何かがあるのだろう。
折しも12日は大拙の命日。館に近い生誕地では胸像への献花があった。
ノーベル平和賞の候補にも名があがった「東西のかけ橋」は自らの思いの広がりを、
長い眉で控えめに誇っているように見えた。』
ふ~む‥‥。鈴木大拙がノーベル平和賞の候補に名があがったことは知りませんでした。
ところで、このコラムを読んで、『日本的霊性』(角川ソフィア文庫)を
30数ページ読んだところで、積読状態になっていることを思い出しました。
読了していない人間が偉そうなことを言って恐縮ですが、日本的な霊性の核心ともいえる「無分別智」などは、
当の日本人でさえ、普段から自覚しているとは思えないのに、
外国の方々にどういう感覚で受け入れられているのでしょうか‥‥?「何か」とは「何」なんでしょう?
私もいつか、その記念館を訪れてみたいと思います。