しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

長編小説を読み直す

邪宗門(上)・(下)』(高橋和巳著:河出文庫)を読了しました。

(上)(下)合わせて1200ページを超える大作のなかで、

印象に残った個所を、あえて一個所あげるとすれば、

私なら、主人公・千葉潔の思想的背景が書かれていると思われる、次の記述を選びます。

少々長くなりますが、この日記に書き残しておきたいと思います。


『本当は誰も信じていなかった。それは千葉潔自身が一番よく知っている。 ~ (中略) ~

 感謝の念は返礼しうる余裕のある者の感情なのだ。

 彼を知る人は、彼の少年期よりの定めのない生活、放浪の人生を珍しげに取沙汰する、

 だが、浮雲のような生活を珍しがる人々、そしてそこに人の感情を豊かにする経験の数々を

 読みとりたがる人々は、人間が三度三度飯を食わねば生きてゆけない存在であることを

 忘れている。性の本能にのみこだわっている人間の本性がいやしいものであるように、

 常時食の問題が念頭を去らぬどんな経験も、その人の人格をゆたかにしない。

 そして、なにも食わないで、あるいは夢や霞を食って人間が生きてゆけるものであれば、

 彼にも人間を美しいものと思い込める機会があったかもしれない。

 彼もあまりにも政治的にものを考える習性から免れ得たかもしれない。

 宗教についてもまた無難な祈禱のうちに個人の救済を願うものとする考えも育ったかもしれない。

 だが彼は飢えの実態を知っていたからこそ、その昔、兵乱があり天災が頻発し、

 偸盗の横行する世相に対して、ただただ祈禱する以外に対処するすべを知らなかった宗教のあり方

 を認めえなかった。祈禱とは何か。それは愁嘆でも慰藉でもなく、僅かに残る可能性を、

 乾坤一擲、我がものとすべき法力を呼びさまそうとするものであるはずだ。

 祈禱は自己の宿命を断ち切り、歴史に非連続な局面を加える最後の手段である。

 また例えば、登山家は、帰る家があって、山の頂を覆う雲や霧を、

 そして日光の乱舞を荘厳と感ずる。だが今宵足を破り山を下ってもその里は自分の故郷ではなく、

 また列車がどの方向に向けて走ろうと、いずこにも休息すべき己の家がなければ、

 自然の奇巧も決して美しく見えぬことを人は知らない。あるいはまた大都会のさかり場の、

 ネオンやイルミネーションの点滅、その下を歩む華やいだ雑沓の中に時折りまぎれ込むからこそ、

 雑沓も時には孤独と楽しみの場と感じうる。日は沈み商店が雨戸をとざし、

 次々とネオンが消えて、ただ街灯が空しくペーブメントを照らす無人の街に、

 どこに行くあてもなく取残される時、人はどうして明日の働きを我が使命と思い得ようか。

 鳥には塒があり、獣にも窖あれど、予言者には枕する場所はないと人は言う。

 だが、本当は、塒もなく窖もなき者には遂に人間の善意も自然の美も感じえず信じえない。

 もし宗教に存存の価値があるなら、万人に美と真と善とを信じうる地盤を提供することが

 第一義のはず。であるとすれば、戦争中の〈祭政一致〉とは全く異なった意味で、

 祭は現実の秩序のあり方を変容する実力をもたねば意味はないのだ。』


学園紛争の余韻が色濃く残っていた大学生の頃、

『悲の器』や『我が心は石にあらず』など、高橋和巳の本を熱心に読みました。

今回、何十年かぶりに、その難解かつ格調の高い文章を読み直すことになりましたが、

二十代に読んだ時にどんな感想を抱いたのか、ほとんど思い出すことはできませんでした。

ただ、本書が名著であることだけは、何十年経っても変わらない事実だと思います。

蛇足ですが、「祭は現実の秩序のあり方を変容する実力をもたねば意味はない」という言葉を、

読み手はそれぞれどのように解釈するのでしょうか? 革命? それとも‥‥?

邪宗門 上 (河出文庫)

邪宗門 上 (河出文庫)

邪宗門 下 (河出文庫)

邪宗門 下 (河出文庫)