今日、帰宅途上に電車の車窓越しに見た夕陽は、それはもう、素晴らしく美しい夕陽でした。
ドイツの強制収容所を体験したフランクルの「夜と霧」に書かれていた夕陽も、
ひょっとしたら、今日のような感動的な夕陽だったのかもしれません‥‥。
さて、今日3日の朝日新聞デジタル版「耕論」は、
『新潮45、揺らぐ論壇』というタイトルの記事でした。
「論壇はどこへ向かのか」について、
いつものように3人の有識者の方にインタビューしていましたが、
私は、漫画家・小林よしのりさんの、次のような発言が強く印象に残りました。
『最近は、右派言論誌全体を読まなくなってしまいました。
見出しを見れば中身がわかるものばかりで、何も新しさがない。昔は違いましたよ。
文芸春秋から出ていた「諸君!」なんかは、
西尾幹二氏や西部邁氏の長大な論文を載せたり、浅田彰氏を出したりしていて、
「そういう考え方もあるのか」と目を開かされることが多かった。
でも、今はそういう長い文章を読める読者がいない。
ネット社会になって、読者が恐ろしく劣化してしまった。書き手も劣化した。
長文をしっかり書ける人がいない。読者の劣化と書き手の劣化が、リンクしているのです。
今の右派言論誌の読者が求めているのは、自分がすでに思っていることの代弁です。
そういう読者向けに売ろうとすると、
同じことばかりを繰り返し載せる雑誌にならざるをえません。
中身は同じで、表現だけがどんどん過激になっていく。
だからわしは、右派言論誌よりも、不特定多数の読者が読む一般誌で描くことを選んだわけです。
それでも、言論誌がなくなってほしくはない。言論や表現の場は広ければ広いほどいい。
雑誌がなくなって、言論の場が狭まっていくと、極右か極左の意見しかなくなってしまう。
中間の多様な意見が出てこなくなり、どんどん分断が進む。
民主主義にとって非常に危険なことです。』
う~む、なるほど‥‥。「読者の劣化と書き手の劣化が、リンクしている」ですか‥‥。
小林さんのお考えは、この私にもなんとなく理解できます。
そして、この小林さんの発言のなかに、
文芸春秋の「諸君!」が出てきたので、懐かしい思いを抱きました。
「諸君!」は私のお気に入りの月刊誌で、
特に、徳岡孝夫さんの「紳士と淑女」を読むのが楽しみで、毎月購入していました。
その2009年6月の最終号は、「輝ける論壇の巨星たち」という「思想家列伝」もあって、
捨てきれずに、いまでも手元においています。
「新潮45」のことはよく知りませんが、「談論風発の場」としての言論誌は、
小林さんのご指摘のとおり、民主主義にとって必要不可欠な存在だと思いました。