しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

日本的「間」について考える

今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、柳家小三治師匠の

『安心しているときが、一番危ないときだよ。迷ってねぇときは、危ない。

 迷っているときは、もっと危ない。要するにいつも危ない。』という言葉で、

いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。


『「お前の噺(はなし)は面白くねぇな」と、

 師匠の小さんからきついだめ出しをくらって以来ずっと、

 「これでいいわけはない」と思ってきたと噺家は言う。

 行き着く先が知れぬまま、納得のゆくまで試行錯誤は続く。

 人生、やり終えたと言い切れるのは、それを自分一人のものと勘違いした時か。

 「別冊太陽/十代目柳家小三治」でのインタビューから。』


う~む‥‥。(沈黙)

この鷲田さんの解説のなかで、

「人生、やり終えたと言い切れるのは、それを自分一人のものと勘違いした時か。」というのは、

どのように理解したらいいのでしょう‥?今日の解説は、私にはちょっと難しかったです。


ところで、最近、私は、

NHKテレビの「日本の話芸」をビデオに録画して、休みの日に観るようにしています。

これまで、何人かの落語家の噺を聴いてきましたが、

小三治師匠のそれが一番面白いのではないかと感じています。

噺のどこに魅力を感じるのか、自分なりに考えてみたところ、

それは絶妙な「話の間」ではないかと‥‥、そんなふうに結論付けました。


そういえば、小説やエッセイ・コラム、論評などの書物についても、

「行間」に書き手の意図を読み取る必要があるとよく言われます。

日本と日本人にとっては、「間」というものが、何事においても大切なのかもしれません‥‥。