今日も昨日に続いて、朝日新聞一面コラム「折々のことば」のことを書きたいと思います。
今日は、トゥルゲーネフの
『持てる力を、他に使いようがないまま無駄遣いしてしまう、
そこにこそ青春の魅力が潜んでいるのかもしれません。』という言葉で、
鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『青春の特権は、「なんでもできる」ではなく「なんでもできると思える」ところにあると、
19世紀ロシアの作家は言う。何をしたって同じと感じる現代の若者にはやや酷かも。
一方、すぐにこの世から失せる身、できないことは何もないと、
怖(お)じ気(け)なく思えるのが老いだとすれば、それも捨てたものでない。
小説「初恋」(沼野恭子訳)から。』
鷲田さんの解説のなかに、
「すぐにこの世から失せる身、できないことは何もないと、
怖(お)じ気(け)なく思えるのが老いだとすれば、それも捨てたものでない。」という記述がありました。
私はいまだこの境地に達していませんが、90歳の父は、何をするにもマイペース、
私や妻の言うことも、ほとんど「馬耳東風」、「暖簾に腕押し」、「馬の耳に念仏」の状態です。
父は、何事にも「怖じ気なく思える」境地に達しているのでしょうか‥‥?
「捨てたものではない」と言えるように「老いる」ことは、私にはとても難しいように感じます。