しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

詩はことばの花々

今日22日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、E・M・フォースターの

『情報は正確なときに真理となり、詩は自立したまとまりを持つときに真理となる。』という言葉で、

いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。


『情報については誰がどこで目撃したかが重要。だからそこには署名が必要だ。が、詩は逆。

 重要なのは誰が書いたかではなく、目の前の事象以上に「本質的」な世界を生みだす作品そのものであって、

 作者も読者もそれに「創造的」にかかわる時、作者が誰かはもはや問題ではない。

 文学は「無名の状態を目ざす」と英国の批評家は言う。評論「無名ということ」(小野寺健訳)から。』


う~む、なるほど‥‥。

E・M・フォースターの言葉も、鷲田さんの解説も、言われていることは何となく理解できます。

このコラムを読んで、今月17日の日経新聞「NIKEEI The STYLE」の「名作コンシェルジュ」のコーナーで、

文芸評論家の若松英輔さんが、「見えぬもの感じた詩人 悲しみ生き抜いた言葉」というタイトルで、

茨木のり子さんの「椅(よ)りかからず」(ちくま文庫)という詩集を紹介されていたことを思い出しました。

この「倚りかからず」は、谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)にも収録されていて、

私はいつも枕元に置いて、いつでも読めるような状態にしています。

その茨木さんの詩のなかで、私のお気に入りは「自分の感受性ぐらい」です。


『ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて

       ~ (中略) ~

 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもがひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ』


くじけそうになった時、いつもこの言葉に助けられています。

鷲田さんは、「作者も読者もそれに「創造的」にかかわる時、作者が誰かはもはや問題ではない。」

とおっしゃっていましたが、読者である私は、いまだその「創造的な境地」に達したことがありません‥‥。


ちなみに、茨木さんは、その著書『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)で、

『いい詩には、ひとの心を解き放ってくれる力があります。

 いい詩はまた、生きとし生けるものへの、いとおしみの感情をやさしく誘いだしてもくれます。

 どこの国でも詩は、その国のことばの花々です。』

はぃ‥、詩の本質というものを表現する言葉として、

私はこの、詩は「ことばの花々」という説明に、大いに納得するところがあります。