佐伯啓思・京都大学名誉教授が、朝日新聞に定期的に寄稿されている「異論のススメ」、
今月1日は『平成の終わりに思う にぎやかさの裏、漂う不安』というタイトルのコラムでした。
佐伯先生が毎回このコラムで書かれる内容は、私にはほとんど「正論」に思われるのに、
どうして「異論」なのか、ずっと違和感を抱いていましたが、次の記述を読んでようやく納得した次第です。
『仮に、今日の思想や政治的立場を大きく「進歩派」と「保守派」に分ければ、
私は自分自身を「保守」の側に位置付けてきた。そして、4年前に本紙オピニオン面の編集部は、
それを承知で、「むしろ積極的に保守的な立場で書いてもらいたい」と依頼をしてきた。
「異論のススメ」というタイトルも、「進歩派」の代表紙である朝日に
「保守的な構え」で書くという意味あいである。』
はぃ‥、それはそれとして、今回も佐伯先生らしい示唆に富むコラムで、とても勉強になりました。
その全文をこの日記に書き残しておきたいのですが、そういうわけにもいかないので、
コラムの最後の部分だけ引用させていただきます。
『グローバリズムとイノベーションが一気に加速し、人々の自由は拡大し、カネもモノもあふれるなかで、
人々が生きにくさを感じるのも当然だろう。
自然に寄りかかれた価値や道徳観の崩壊、家族や地域や信用できる仲間集団の衰退、
数値化できない人格的なものや教養的なものへの信頼の失墜、
言論の自由の真っただ中でのPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的正しさ)的正義による言論圧迫、
それに対抗するかのような言いたい放題のSNS。
「バベルの塔」に似せて言えば、神が人々に自由(好きな言葉をしゃべる自由)を与えた結果、
言葉はもはや通じず(共通の規律や規範がなくなり)、バベルの塔はそのまま放置された、
とでも言いたくなる。
そして、あげくのはてが、もはや真実などという基準が通用しないフェイクの横行である。
そうなれば逆にまた、客観的な数値やエビデンスやPC的正義がことさらに持ち出される。
それはともに、政治に対する、他の国家や民族に対する、組織に対する、仲間に対する信頼を失墜させて、
社会のなかに渦巻く不信感を増幅させるだろう。
それが今日の姿だとすれば、「進歩派」であれ、「保守派」であれ、
問題にすべきはこの種の「現代文明の状況」そのものではなかろうか。』
う~む、なるほど‥‥。「バベルの塔はそのまま放置された」ですか‥‥。
イデオロギーというより、「現代文明の状況」そのものが問題なのですね‥‥。
それにしても、現代を生きる私たちの「文明」は、正しい方向に向かっているのでしょうか‥‥?
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という言葉が脳裏をよぎりました。