今日25日の朝日新聞一面コラム「天声人語」に次のようなことが書かれていて、
少し考えるところがありました。
『敗戦の年の夏のことを、作家の坂口安吾が苦々しく書いている。
「国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。
嘘(うそ)をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」。
われら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったではないかと(「続堕落論」)。
日本人のそんな振るまいを安吾は、「歴史的大欺瞞(ぎまん)」と呼んだ。
死にたくない、戦争が終わってほしいと切に欲していたのに、自分たちでは何も言えず、
権威の行動と価値観に身をゆだねる。自らを欺く行為に等しいと、安吾には映った。
天皇が元首だった当時とは違い、象徴と位置づけられる現代である。
それでも似たような精神構造をどこかで引きずってはいないだろうか。
「象徴としての務め」は、平成に入ってから目立つようになった。
なかでも第2次大戦の戦地への訪問の一つひとつは、
日本の加害の歴史を忘れないようにという試みだったのだろう。平和憲法を体現する道ともいえる。
しかし、こうも思う。その営みは、天皇という権威が担えばすむことなのか。
「おまかせ民主主義」という言葉がある。投票にも行かず政治家や官僚に従うことを指す。
同じようにすごく大事なことを「象徴の務め」にまかせて、考えるのを怠ってこなかったか。
天皇制という、民主主義とはやや異質な仕組みを介して。
世襲に由来する権威を何となくありがたがり、ときに、よりどころにする。
そんな姿勢を少しずつ変えていく時期が、来ているのではないか。』
この一面コラムを読んだ直後に、
「かんべえ」さんこと、双日総合研究所・吉崎達彦さんの「かんべえの不規則発言」に
いつものように目を通していると、次のような文章に目が留まりました。
『日本人の悪い癖として、「起きてほしくないことは、なるべく考えない」ところがある。
誰かが起きてほしくないことを言い出すと、「空気読め」とばかりに沈黙を強いる。
で、結果的にみんなで一緒に間違えてしまう。』
たまたまなんでしょうが、どちらも「日本人の負の面」を鋭く指摘しているように感じました。
日本人は「考えない民族」なのかもしれません‥‥。