しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

理解を超えるもの

雨模様の空の下、強い風が吹き荒れた今日一日でした。


さて、かつて朝日新聞一面コラム「折々のことば」で、鷲田清一さんが、

寺山修司さんの『幸福論』(角川文庫)に出てくる、とある接客業の女性の

「ひとりで幸福になろうとしても、それは無理よ」という言葉を紹介されていたので、

通勤電車の往復時間を利用して読み進めていたところ、先日になって、ようやく読み終えました。


この本で寺山さんが書く文章は、私にとっては難解でしたが、

それよりもむしろ、寺山さんが引用した言葉の方が印象に残りました。それは例えば、

「幸福とは幸福をさがすことである」(ジュウル・ルナアル)

「地上における人間の使命は記憶することである」(ヘンリー・ミラー)

「必然ということばは社会的であり、偶然ということばは個人的である」(ノーマン・メイラー)

「私たちは、あらゆる意味において、私たちの作り出すものの中にしか、私たちの諸行為の向こう側にしか、

 存在することができない」(E・M・シオラン)


いや、もちろん、寺山さんの言葉にも、この日記に書ききれないほどの印象に残る記述がありました。

・書物はあくまで「時」という名の書斎と、「教養」という名の椅子、

 それに少しばかりの金銭的余裕をもちあわせている人生嫌いの人たちに、

 代理の人生の味わいを教えてくれるだけである。

・幸福と肉体との関係について考えることは、きわめて重要なことである。

 なぜなら、一冊の「幸福論」を読むときでさえ、問題になるのは、

 読者の肉体のコンディションということだからである。

 たとえ、アランやヒルティの「幸福論」にしたとて、病弱の読者とアメリカン・フットボールの選手では、

 まるで受け取りかたが違う。それが侮蔑の書となるか、なぐさめの書となるかは、

 読者の状況によって決まるとも言えるのである。


う~む‥‥。ちなみに、この本の最後は、「幸福ですか?」という問い掛けで終わります。

「ますます」というか、「さっぱり」というか、「やっぱり」というか、

「幸福」について考えるときには、私の理解を超えるものがあります‥‥。

幸福論 (角川文庫)

幸福論 (角川文庫)