しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

いはんや悪人をや。

昨晩は、気の置けないメンバーとの飲み会でした。

メンバー内では、その飲み会を「例会」と言っています。

この日記にたびたび登場するKちゃんをはじめ、Sちゃん、Oちゃん、Tねぇ、Kちん、そして私の6人です。

美味しいお酒と食べ物に、楽しく愉快なおしゃべり‥‥。時間はあっという間に過ぎていきました。

定年退職をした私に、いまでも声を掛けてもらって、感謝の気持ちで一杯です。


さて、話はがらりと変わりますが、『私訳歎異抄』(五木寛之著:PHP文庫)を読了しました。

大きな字でとても読み易く、分かりやすい解説で、ほんの数日で読んでしまいました。

この本を読んで、一番収穫があったのは、

親鸞思想の最大の逆説ともいわれる「悪人正機説」の意味するところを、初めて納得できたことでした。

五木さんは、次のように「私訳」されていました。


『‥‥というのは、いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、

 自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。

 ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、

 絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。

 だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心をあらためて、

 他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない。

 あらゆる煩悩にとりかこまれているこの身は、

 どんな修行によっても生死の迷いからはなれることはできない。

 そのことをあわれに思ってたてられた誓いこそ、

 すべての悩める衆生を救うという阿弥陀仏の約束なのである。

 わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、

 他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、

 根源的な悪をかかえた存在である。 ~ (中略) ~

 わたしたちはすべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、

 他力の光に心から帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることが

 わかってくるだろう。おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、

 まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。』


う~む、なるほど‥‥。そういうことでしたか‥‥。お見事な現代語訳に、ただただ脱帽です‥‥。

あらゆる煩悩にとりかこまれている私には、購入して大正解の本でした。