しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

祝・100作品

鳴くセミの声に、ツクツクボウシの声が混じるようになりました。

今は夏本番だけれど、季節は一歩、前に進みつつあります‥‥。


さて、NHKテキスト、100分de名著「Momo(モモ)~ミヒャエル・エンデ」を読了しました。

「モモ」は、ドイツの児童文学作者ミヒャエル・エンデが1973年に発表したファンタジー作品で、

このテキストの執筆者は、京都大学教授で臨床心理学者の河合俊雄さんでした。

その河合さんの解説の中から、印象に残った記述を抜き出してみました。(カッコ内はテキストの小見出しです。)


・‥‥では、なぜ人に話を聞いてもらうと気持ちが楽になるのでしょうか?

 私は、それが相手に何かを託すことができる行為だからだと思います。(なぜモモは話が聞けたのか)


・‥‥これが示唆するのは、近代において時間の節約をして得をするのは、

 個人ではなくシステムの側だということです。

 私たちは時間が節約できて得をしたと思っていても、結局は企業の利益や国家の方針など

 システムのために利用されているのです。(灰色の男とは何か)


・‥‥遊びに限った話ではありません。

 物事があらかじめ決められていると、人間の想像力は次第に失われていきます。

 つまり、想像力を育てるのは自由な時間なのです。(遊べなくなった子どもたち)


・人と何かを共有することが、豊かな時間をつくり出す。(つながりを断つ)


・クロノスとはいわゆる普通の時間の流れ、

 カイロスとは時のめぐりがちょうどぴったり一致する時のことです。

 言い換えるならば、「時計で測れる時間」と「時計では測れない質的なタイミング」です。

 (「星の時間」をつかむ)


・私は、慌ただしい大人にこそファンタジーを読んでほしいと願っています。

 自分が生きている現実とはまったく違うリアリティに触れることができますし、

 子どもとは異なる読後感を感じるでしょう。

 その印象を吟味することによって、世界へのより深い洞察や、

 新しい生き方を感じ取ることができるはずです。

 大人がファンタジーを読む意味は大きいと思います。(大人がファンタジーを読むことの意味)


ところで、テキストの巻末には、『2011年4月に始まった「100分de名著」は、

100作品を迎えることができました。(アンコール放送分をのぞく)。

これもひとえに、視聴者・読者の皆さま、歴代講師の皆さまのおかげです。

今後の放送・テキストにもどうぞご期待ください。』と書いてありました。


2011年という年は、3月に東日本大震災が発生し、5月に孫娘が生まれ、

10月にこの日記を書き始めたという、私にとって忘れられない年です。

その年の4月に、この「100分de名著」も始まったのですが、

私は100作品、すべてのテキストを欠かさず購入してきました。


100作品の中でも、私にとって印象に残る10作品を挙げるとするならば、古い順に、

「夜と霧」、「モンテ・クリスト伯」、「こころ」、「フランケンシュタイン」、「堕落論」、

苦海浄土」、「赤毛のアン」、「生きがいについて」、「ペスト」、「薔薇の名前」、

といったところでしようか‥‥。

とりわけ、「モンテ・クリスト伯」の「待つこと、そして希望すること」は、忘れ難い「名言」です。


この「100分de名著」のテキストを読み、テレビ番組を視聴することが、

今の私の楽しみの一つとなっています。これからも名作品を楽しみにしています‥‥。

真の危機を自覚すべきかも?

先月29日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、キェルケゴール

「絶望していないこと、換言すれば自分が絶望していることを意識していないことも

 またまさに絶望の一つの形態である」という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『何かについての絶望は本当の絶望ではない。

 そうした絶望に囚(とら)われている自分にさらに絶望し、

 しかもそこから眼(め)を背け、抜け出そうとするのが絶望の定式なのだと、

 19世紀デンマークの思想家は言う。

 時代の危機もおそらく同じで、危機を危機として受けとめる感覚の消失こそ真の危機なのだろう。

 「死に至る病」(斎藤信治訳)から。』


新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかかりません。

報道によると、新型コロナウイルスの感染者は今日も新規確認が相次ぎ、

午後6時点で全国で1118人、1千人を超えるのは4日連続とのことでした。


ところが、このような報道に慣れっこになったのでしょうか、私自身、あまり驚かなくなりました。

というのも、以前と違って、マスクや消毒液が簡単に手に入り、

買い物に行っても電車に乗っても、周りの人はマスク着用は当たり前で、

各自がそれなりに感染防止対策を講じているように思えるからです。


鷲田さんによれば、このような「危機を危機として受けとめる感覚の消失こそ真の危機」なのですね‥‥。

もう一度、国民が皆で緊張感を持たなければ、

取り返しのつかない事態になってしまうのかもしれません。(反省)

ようやく梅雨明けです

四国地方が昨日30日に、ようやく梅雨明けしたようです。

今日の愛媛新聞には、「平年より12日、昨年より5日遅く、統計を始めた1951年以降で4番目に遅い。

今年の梅雨は60日間で過去3番目に長かった。」と書いてありました。


梅雨が明けた今日は、厳しい暑さとなりました。

じりじりと照り付ける日差しを前にすると、今度は一雨が無性に恋しくなります。

かくも人間は、我儘な存在なのだと思います。


日差しが和らいだ夕方からは、庭の草むしりをしました。

蚊よけネット附きの麦わら帽子を被り、蚊取り線香を炊いて、

地面にこびりついた雑草を粘り強く除去していきます。

狭くても家に花木がある庭があることは、四季折々の自然を愛でる楽しみがある一方で、

毎年のことながら、花木の消毒と草むしりという、おっくうな作業が必要となります。


大粒の汗をかきながら作業に励むこと約1時間、ようやく和室前の庭の雑草が無くなりました。

おかげで、夕食に飲むビールが、格別に美味しかったです‥‥。

さぁ、明日からは8月です。

コロナウイルス熱中症に気を付けて、これからの暑い夏を元気に乗り切りたいと思います。

先輩からの葉書が届く‥‥

昨日、大学時代の先輩から暑中見舞いの葉書が届きました。

先輩と言っても、同じ下宿先で、同じ釜の飯を食べた先輩です。

私が早稲田の一年生だった時に、先輩は立教大学の大学院生でした。

立教大学を御卒業後は、故郷の広島県に帰って、某有名私立高校の先生をされていました。

卒業後は、お目にかかったことはないのですが、こうして毎年、律儀に季節の便りを届けていただきます。

必ず短い言葉を添えて‥‥。


昨日の葉書には、「そちらもそろそろ(二度目の)定年かな。のんびりやろうぜ。」という言葉がありました。

人生の先輩の、この「のんびりやろうぜ。」という直筆の言葉で、私の心は随分と楽になったように思います。


その人にとっては何気ない一言が、他の人に生きる勇気を与えてくれることもあるのです‥‥。

果たしてそうなのかな?

昨日付の「溜池通信・不規則発言」に、「かんべえ」さんが次のようなことを書かれていました。


・先日、「保健所というのは各都道府県の管轄だから、

 厚生労働大臣の指揮命令系統にないんだよねえ」という話を聴いて、

 目が点になってしまった不肖かんべえである。

 この国には、なんと不思議なことがあるのだろうか。なんでそんなことになっているのだろう??


・どうやらこういうことらしい。

 この国の感染症対策の体系は、コレラなどの急性感染症対策としての「旧伝染病予防法」(明治30年)、

 結核対策としての「旧結核予防法」(大正8年→昭和21年に「新結核予防法」)、

 「保健所法」(昭和12年→昭和22年改正)という経路をたどって作られてきた。

 保健所が中心になって感染者を入院隔離して、蔓延を防止するという対応を基本としてきた。

 かつては、それでよかったのである。


・しかしこの体制は、飛行機や新幹線を使って人が県境を超えて派手に移動するとか、

 海外から年間3000万人以上も外国人が来るとか、感染力が極めて強く、

 無症状者からも感染するCovid-19のような感染症が広がることを前提としていない。

 都道府県を横断して感染症が全国に蔓延する、というのは想定の範囲外であり、

 全国規模の明確な指揮命令系統も存在しないのでありました。


う~む‥‥。果たしてそうなのかな‥‥?

私は、保健福祉行政に一度も携わったことがないので、迂闊なことは言えないのですが、

感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症法)をつらつらと眺めてみると、

厚生労働大臣は、「感染症の発生を予防し、

又はそのまん延を防止するため緊急の必要があると認めるとき」は、

保健所を設置する都道県知事、市長(政令指定都市中核市等)、区長(特別区)に対し、

法令の規定により行う事務に関し必要な指示を行うことができるようになっているみたいだし、

感染症法において都道府県、保健所を設置する市又は特別区が処理することとされている主要な事務は、

「国が本来果たすべき役割にかかわる第一号法定受託事務」(昔の機関委任事務です。)であるように思います。


そうだとするならば、ご指摘の点は、法令上の問題というよりも、

運用上の問題のように思うのだけれど、違うのかしら‥‥?

もっとも、法令上でも運用上でも解決できない広域的な課題・問題は、

国会で法律を改正して、国の権限を強化する必要があるのでしょうね、きっと‥‥。