しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

孫娘の運動会

寒かった昨日とは打って変わって、今日は良く晴れて穏やかな一日となりました。

そして、この秋晴れの今日は、雨で一日順延された孫娘の運動会でした。

孫娘の通う小学校の運動会は、昨年は5月に実施されたと記憶していますが、

今年はコロナの影響で、その時期には開催することができず、一年半ぶりの運動会となりました。


無事に開催できたとはいえ、参観者は事前に届け出た保護者とその関係者で、

競技種目もリレーなど3密を避けた競技に限定にされ、

しかもそれらの競技が、すべて午前中に終わるという内容だったみたいです。


「グランパもどう‥?」と、有難く参観を誘われましたが、先日の泌尿器科病院の尿検査で、

赤血球と白血球の反応が出たので、残念ながら大事を取って、参観を見合わせることにしました。

参観した妻によると、学年対抗リレーのメンバーに、昨年に続いて選ばれた孫娘は、

一生懸命に走って、無事にその大役を果たせたとのことでした。


家族が会話しながらお弁当を食べるのが、一つの楽しみでもあった、去年までの運動会‥‥。

今まで当たり前だった楽しみも味わえない、今を生きる子どもたちが、なんだか不憫でなりません‥‥。

でも、孫娘の世代にも、希望ある未来がきっと待ち受けていると、私は励まし続けたいと思います。

「夕陽」と「夕焼け」雑感

自宅近くの「西の海岸」では、時として、言葉を失うほどの美しい夕陽を見ることができます。

その夕陽に関連して、今日の日経新聞一面コラム「春秋」には、次のようなことが書かれていました。


『明治時代、日本の民話などを世界に紹介したギリシャ生まれの文筆家、

 ラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、

 夕焼けをことのほか愛したようだ。妻の節子が夫との日常を「思い出の記」に残している。

 東京・西大久保の自宅では書斎を西向きにしたほどだったという。

 手記によると、空があかね色に染まるのを見つけ、八雲はよく妻や子らを大声で呼んだ。

 いつも急いで駆けつけるが「一分後れました、夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒」

 と残念がったらしい。 和気あいあいとした家族の一場面である。

 秋が深まって空気が澄み、沈む赤々とした日が美しく映える季節となった。

 各地に日没の眺めがすばらしい場所はあろうが、東京近郊の光景も作家にめでられている。

 国木田独歩は「富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって‥‥」と記した。

 太宰治は「毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている」と書いている。

 自然の壮大な演出に癒やされているように感じたのだろう。

 八雲は入り日を見つつ、妻子らと「夕焼け小焼け、明日、天気になーれ」と歌ったという。

 空模様に加え、家族の息災も祈ったにちがいない。

 コロナ禍の中、冬が近づく。感染や医療体制への不安は消えず、一刻も早い収束を願わない人はいまい。

 そんな希望も映し夕焼けが空を彩ってくれたら。ひととき励ましとなろう。』


へぇ~‥、昔は、東京・西大久保からも「夕焼け」が美しく見えたのですね‥‥。

振り返れば、大学生時代、西大久保近くの西早稲田に住んでいた頃、

地平線に沈む「夕陽」を見ることは、当然のことながらできませんでしたが、

都心特有の「夕焼け」の美しさは、確かにあったような記憶があります。


「夕陽」「夕焼け」とは真逆の「朝日」「朝焼け」も、きっと同じくらい神々しいのだと思うけれど、

あいにくその時間帯は、平日は出勤準備で忙しく、休日はまだ寝床の中なので、

元旦の「初日の出」を除いて、その美しさに感動することは、残念ながらほとんどありません‥‥。


話は変わりますが、今日は冷たい雨が降り続き、冬が一気に訪れたような寒い一日となりました。

苦手な季節の到来に、思わず身構えてしまう自分がいます‥‥。

また、その一方、冬の訪れは、チューリップの名曲「サボテンの花」を思い起こす季節でもあります。

♬ この長い冬が終わるまでに 何かをみつけて生きよう

  何かを信じて生きていこう この冬が終わるまでに

「あの頃」に戻ってみたい

南沙織さんの「ひとかけらの純情」を聴くと、決まって高校生の頃に好きだった人のことを思い出します。

♬ あの恋のはじめの日を 誰かここへ連れてきてほしいの

  あの胸のうずくような 恋をしてる人にならわかるわ


先日の報道では、「17才」が筒美京平さんの作曲とのことだったので、

ひょっとして‥?と思い、ネットで調べたところ、やはりこの名曲も筒美京平さんの作曲でした。


そのほか、「潮風のメロディー」、「ともだち」、「哀愁のページ」など、

私の好きな南沙織さんの初期の代表的な曲は、筒美京平さんの作曲だったのですね‥‥。

あぁ‥‥、今思えば、これらの曲を背景にして、自分自身が最も輝いていたと思う「あの頃」に、

一度でいいから戻ってみたいです‥‥。


そういえば、「あの日にかえりたい」という、ユーミンの名曲もありましたね‥‥。

薬の袋で一杯‥‥

今日は仕事をお休みしました。

父をかかりつけ医に診てもらうためです。

病院は、インフルエンザ予防接種を目的に来院した高齢者も大勢いて、とても混雑していました。


糖尿病と便秘の持病を抱える父は、尿や血液の定期的な検査と薬の継続的な投与が不可欠です。

それに加え、今日は皮膚の薬と足に貼るシップ薬も処方してもらいました。

薬局でもらった薬の量は、マイバックが一杯になるほどの量でした。(苦笑)


父に限らず、私は前立腺副鼻腔炎、妻はリウマチの薬を継続して飲み続けています。

そのため我が家は、何種類もの薬の袋で一杯です。

お互いの薬を、飲み間違えしないようにしなければなりません‥‥。


明日は、泌尿器科病院の通院の日です。持病との共存生活はこれからも続きます‥‥。

昨日の続きです‥‥

昨日の続きです‥‥。
作曲家・筒美京平さんのご逝去を受けて、

今日の愛媛新聞一面コラム「地軸」、産経新聞一面コラム「産経抄」、

そして、朝日新聞一面コラム「天声人語」には、名曲誕生のエピソードなどが書かれていました。

(残念ながら、「天声人語」は有料会員ではないため、その全文を読むことができませんでした。)

たとえば、「産経抄」では次のように‥‥。


筒美京平さんはもともと、エアコンのCMソングとして曲をつくった。

 作詞を担当したのが、人気漫画「アンパンマン」で知られるやなせたかしさんである。

 この話が流れて、今度は阿久悠さんが詞をつけたが、まったく売れない。

 「普通ならどんないい曲でも、2回も失敗すると諦めるものだ」。

 阿久さんは後に振り返る。ただ、筒美さんは絶対の自信を持っていたようだ。

 新たに起用された歌手の尾崎紀世彦さんのために詞を書き換え、

 大ヒットしたのが「また逢う日まで」である。

 昭和46年の日本レコード大賞受賞は、阿久さんにとって作詞家としての最初の勲章となる。

 2年前にすでに「ブルー・ライト・ヨコハマ」でレコード大賞・作曲賞を受賞している

 筒美さんのもとには、仕事の依頼が殺到する。‥‥』


う~む、なるほど‥‥。

何かビジネスの世界にも通用するようなお話しでした。

音楽の世界の「曲」に限らず、ビジネスの世界における「製品」や「サービス」でも、

仕上がったものに自信があるのであれば、ヒットするまで簡単にあきらめてはならない。

創意工夫や改善の余地がきっとあるはずだ‥‥。

コラムを読んで、私はそのように理解しました。