しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

歌はタイムカプセル

日経新聞一面コラム「春秋」のコラムニスト氏は、ひょっとしたら、私と同世代なのでしょうか‥?

「大学入学共通テスト」が始まった今日のコラムには、懐かしい二曲のフォークの名曲が、

次のように引用されていました。


『〽おいで皆さん聞いとくれ。

 半世紀以上も前のフォークソング「受験生ブルース」はこんな歌い出しだった。

 今年の高校3年生や浪人生も似た心境ではなかろうか。

 きょうから初の「大学入学共通テスト」が始まり、全国約700の会場で、50万人超が問題に取り組む。

              ~ (中略) ~

 試験会場ではマスク着用、休み時間には換気で窓も開けるという。

 社会の変化に対応すべく思考力を重視する新テストは、

 期せずして物事に動じぬ胆力やらタフさも試すことになったかのようだ。

 自分を信じて、がんばるしかない。冒頭のブルースと同じ年の「友よ」は、こう歌っている。

 〽夜明けは近い 夜明けは近い。』


高石ともやさんの名曲「受験生ブルース」(1968年)で、私の好きな歌詞のフレーズは、

 ♬ 大事な青春むだにして 紙切れ一枚に身をたくす

   まるで河原の枯れすすき こんな受験生に誰がした

また、岡林信康さんの名曲「友よ」(1968年)で、私の好きな歌詞のフレーズは、

 ♬ 友よ 君の涙 君の汗が 友よ むくわれるその日が来る

   夜明けは近い 夜明けは近い

   友よ この闇の向こうには 友よ 輝く明日がある


「名曲」といえば、昨日15日、NHKテレビで放映された「松任谷由実スペシャル」で、

ユーミンが、「やさしさに包まれたなら」と「守ってあげたい」という名曲を歌っていました。

そして、番組の中でユーミンが、「歌はタイムカプセル」とおっしゃっていたことが、強く印象に残りました。


「受験生ブルース」「友よ」「やさしさに包まれたなら」「守ってあげたい」‥‥。

何十年が経過しても、これらの名曲は、そう、それはまるで「タイムカプセル」のように、

「あの頃」「あの日」、「あの時」、「あの瞬間」に、私を連れ戻してくれます‥‥。


追記

「You Tube」で「友よ」の、珠玉の動画がありました。ぜひご覧ください。


友よ 岡林信康

「医療資源の最適配分」を考える

トリアージという言葉」のタイトルがついた、

今日の朝日新聞一面コラム「天声人語」(デジタル版)の次の文章を読んで、

いろいろと考えるところがありました。


『‥‥人口あたりの病床数は世界最高水準で感染者は欧州より少ない。

 それでも逼迫(ひっぱく)するのはなぜか、

 医師で医療経済ジャーナリストの森田洋之(ひろゆき)さんが文芸春秋2月号に書いている。

 日本は臨機応変に医療資源をあてる機動性に欠けている。

 背景には医療が民間中心で国が命令できず、

 病院がライバル関係にあり連携が難しいことなどがあるという。

 構造的な問題があるなら、物事を動かすための戦略と財源がいる。

 店や個人に罰則を科す議論より、優先すべきはこちらではないか。

 現場で踏ん張る医療従事者を支えるためにも。』


う~む、なるほど‥‥。「日本は臨機応変に医療資源をあてる機動性に欠けている」のですね‥。

ということは、「医療の逼迫」や「医療の崩壊」というのは、

特定の医療機関や医療スタッフに、負荷が偏っているというのがその実態なのでしょうか‥‥?

医療の厳しい現場が分からないだけに、想像力を働かせるしか一国民の私には術がありません。


このことに関連して、経済学者の宇沢弘文先生が、「社会的共通資本」(岩波新書)で、

次のようなことを述べられていたのを思い出しました。


『医療のために配分することのできる希少資源--

 医師や看護師、検査技師などのコ―メディカル・スタッフを含めて--は限定されたものであって、

 すべての市民が、必要とする医療サービスを自由に、無制限に享受することはできない。

 したがって、各時点で、それぞれ限られた医療資本をもっとも効率的に、

 かつ社会的な利点からみて公正に配分するためにはどのような制度をとったらよいかという問題を

 考えなければならない。また、医療サービスの供給者である医師を始めとして看護師など

 コーメディカル・スタッフの職業的・専門家的倫理を

 どのようにして内発的な動機と一致させるようにするかという、

 いわゆるインセンティブ・コンパティビリティ(Insentive Compatibility)の問題もまた、

 社会的共通資本としての医療を考察するとき、重要なものとなるであろう。』


医療資源は「社会的共通資本」であって、官僚的に管理されるものであってはならないし、

また市場的基準によって配分されるものであってはならないと、宇沢先生はおっしゃっていました。

ただ、コラムが指摘しているように、「医療資源の最適配分」はいかにあるべきかを議論することは、

国民の代表である政府や国会の大切な役割だと思います。

決定的な「欠点」とは‥‥

作家・半藤一利さんのご逝去を受けて、

日経新聞一面コラム「春秋」と朝日新聞一面コラム「天声人語」には、

それぞれ次のような内容の「追悼のコラム」が掲載されていました。


『‥‥一枚の写真が対談集に載っている。

 半藤さんが8歳の時、夏のラジオ体操の後、友人たちと肩を組む姿だ。

 ランニングシャツに満面の笑みである。

 この7年後、愛する故郷が大空襲の炎に包まれるとは思いもしなかったろう。

 逃げ惑った末に川に落ちた半藤少年は、誰かに襟首をつかまれ、船に引き上げられたのだという。

 ベストセラーとなった「昭和史1926-1945」は、

 あちこちに当時の指導者らへの怒りがたぎっている。

 「それにしても何とアホな戦争をしたものか」。一節が重い。

 「根拠なき自己過信と、まずくいったときの底知れぬ無責任」。昭和史の結論だそうだ。

 出口の見えないコロナ禍、改めて遺訓としてかみしめたい。』


『‥‥無計画。自己過信。優柔不断。それらは反省されることなく太平洋戦争に引き継がれた。

 戦前戦中の歴史を徹底的に調べて、わかりやすく書く。半藤さんが90歳の生涯を閉じた。

 文芸春秋の駆け出しの編集者だったとき、坂口安吾から「歴史書にはうそも書かれている」と言われた。

 だから史料をつきあわせて推理し、合理性を探さねばならないのだと。

 編集者から作家になり、「歴史探偵」を名乗った。

 「日本のいちばん長い日」では玉音放送までの24時間を、

 「B面昭和史」では重苦しいばかりでない庶民の日常を描いた。

 半藤さんの仕事がなければ、私たちの歴史感覚はずっと鈍くなっていたかもしれない。

 歴史を現代に常に結びつけて考える人でもあった。

 日本で権力が一点に集中していくのを憂い、対談で語っていた。

 「民主主義のすぐ隣にファシズムはある、そのことを国民はしっかり意識しなければならない」』


はぃ‥、どちらもコラムも、半藤さん個人の業績を称えるだけにとどまらず、

私たちが生きる、今の時代の問題点を鋭く指摘する、内容の濃いコラムだったと思います。

そして、どちらのコラムにも相通じる言葉は、「無計画」「自信過剰」「無責任」「優柔不断」‥‥。

これらは、私たち日本国民が、先祖からDNAとして受け継ぐ、決定的な「欠点」なのかもしれません。

教訓は歴史に‥‥

多くの昭和史ノンフィクションを執筆された、作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんが、

90歳でお亡くなりになったことを、報道に接して知りました。


終戦玉音放送までの24時間を描いた、半藤さんの代表作「日本のいちばん長い日」は、

本でも読みましたし、映画も観に行きました。

さらに、「昭和史」(平凡社ライブラリー)を読んで、

いかに自分が、中学・高校の歴史教科書で、「表面上の知識」しか学んでいないかを思い知らされました。


そして、今日の日経新聞デジタル版には、「昭和史に教訓 日本人問う」という見出しで、

次のようなことが書かれていました。

『‥‥「戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるのは至難の業」が口癖だった。

 それゆえ自身が「終戦4部作」と呼ぶ

 「日本のいちばん長い日」「聖断」「原爆が落とされた日」「ソ連満洲に侵攻した夏」のように、

 あの戦争を終える際、日本人がいかにもがき苦しみ、血の涙を流したかを描くことにこだわった。

 「戦争に負けたときほど日本人が精神の根っこをさらけ出したときはない。

 素晴らしい精神性を見せた人もいれば、だらしない人もいた。日本人とは何かがよく分かる」

 「戦争」を様々な言葉に置き換えて考えることもできる。

 歴史を知ることは物知りになることではなく、日本人とは何者かを知ること。

 その材料、教訓は昭和史に山ほどある。それが「半藤史学」だった。』


また、先ほどの「昭和史」の「あとがき」を改めて読み直してみると、

半藤さんは次のようなことを述べられていました。

『‥‥それにつけても、歴史とはなんと巨大で多様で、面白い物語であるかとつくづく思う。

 人間の英知や愚味、勇気と卑劣、善意と野心のすべてが書き込まれている。

 歴史とは何かを考えることは、つまり人間学に到達するのである。』


コロナ禍の現在も、謙虚に歴史に学ぶことは多いように思います‥‥。

新しい人の情熱を信じている

昨日11日は成人の日でした。

今年も日経新聞には、サントリーウイスキーの広告に、作家・伊集院静さんの

「新しい人の情熱を信じている」というタイトルの、次のようなメッセージが掲載されていました。


『‥‥大人って何だろうか?

 それを考える前に、今年の新成人の君たちがいつもの年と少し違っていることを話しておこう。

 それは、君たちがコロナの中で新成人を迎えたことだ。

 いや大変だよね。手洗い、うがい、マスク着用、大声を出さない‥‥。

 コロナの対処法があり、ルールが生まれた。君たちはよくルールを守り、今も黙々と戦っている。

 なぜ自分たちだけが、なぜこんな時代に、と愚痴も言わず、嘆きもしない。

 世界が君たちに感心している。私も君たちを誇りに思う。よく頑張ってるね。

 さまざまな感染症が人類を襲って千五百年が過ぎたが、私たちは一度も彼等に敗れていない。

 ‥‥なぜ敗れなかったか?

 それは、私たちの祖先がひたむきに耐え、考え、知恵を出し、脳漿(のうしょう)をしぼり、

 懸命にベストを尽くしたからだ。

 そして何より、明るい未来が待っていることを信じたからだと思う。

 君たちにはそれらを実行するパッション、情熱が胸の中に受け継がれているんだ。

 そんなに頑張っている君たちに今年もまた同じ言葉を贈ります。

 生きる道が目の前にあり、それが登り道と下り坂なら、登り道を選びなさい。

 むかい風と追い風ならむかい風に立ちなさい。困っている人に、手を差し伸べる勇気を持とう。‥‥』


う~む‥‥(感嘆)。 今年も伊集院さんらしい、心に響く力強いメッセージでした。

コロナ禍の現在、一国のリーダーに求められるのは、

官僚が予め用意した原稿を、下を向いて棒読みすることではなく、

伊集院さんのメッセージのように、自らの言葉で真摯に国民に語りかけること‥‥。

偉そうな言い方かもしれませんが、そのように率直に感じた次第です。


新成人の皆さんの、輝かしい未来を、私もお祈りしたいと思います。