町立図書館で借りてきた『ふしぎなキリスト教』
(橋爪大三郎、大澤真幸著:講談社現代新書)を読了しました。以前から読みたかった本です。
本書で印象に残った個所を、橋爪先生の次の二つの発言に絞って、書き残しておきたいと思います。
『一神教の神は、自分が正しさの規準なので、
「あなたはなぜ正しいですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなのです。
人間のつとめは、神の言うとおりにすること。
なかなかうまくいかなくてもへこたれないで、「この瞬間も神は私のことを考えてくれているんだ」
と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。
こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。
人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、
その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。
ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかはあまり問題じゃない。
試練なんですから。試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。
神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。』
『マスクス主義は、この弁証法に駆動されています。
マルクス主義は、唯物論を標榜し、キリスト教と関係のないことになっていますが、
私からみると、神がいないだけで、ほとんどキリストきょうと同じ。教会の代わりに共産党がある。
共産党はカトリック教会のように、一つでなければならないとしている。
それは世界全体が、歴史法則に貫かれているからなんです。
やがてやってくる世界革命は、終末とよく似ている。
プロレタリア/ブルジョアの二分法も、救済される/されない、の分割線なのです。
もう全体が、キリスト教の部品装置でできているのですね。
というふうに、たとえばマルクス主義を生み出してしまうのは、
キリスト教の重要な性質のひとつだと思われる。』
大澤先生は、本書の「まえがき」で、
われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、
その困難を乗り越えるためには、近代、西洋というものを相対化しなければならず、
こうした状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティブに対応するためには、
どうしても近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない、とおっしゃっていました。
これまで、キリスト教に関する初歩的な本を何冊が読んできましたが、
本書が一番読み応えがあって、かつ、勉強になりました。
でも、やっぱり、私の中では、「全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか」という疑問は、
お二人の対談を読んでも、最後の最後までよく分からないままなのです‥‥。