しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

近代社会の元の元

町立図書館で借りてきた『ふしぎなキリスト教

橋爪大三郎大澤真幸著:講談社現代新書)を読了しました。以前から読みたかった本です。


本書で印象に残った個所を、橋爪先生の次の二つの発言に絞って、書き残しておきたいと思います。

一神教の神は、自分が正しさの規準なので、

 「あなたはなぜ正しいですか」と聞いても、理由を教えてくれない。端的に正しい。そういうものなのです。

 人間のつとめは、神の言うとおりにすること。

 なかなかうまくいかなくてもへこたれないで、「この瞬間も神は私のことを考えてくれているんだ」

 と信じて、神と対話しながら、神に従い続ける。

 こういうコミュニケーションを絶やさないことが、神の最も望むところである。

 人間にとっては、人生のすべてのプロセスが、試練(神の与えた偶然)の連続なのであって、

 その試練の意味を、自分なりに受け止め乗り越えていくことが、神の期待に応えるということなんです。

 ユダヤ民族も、外国と戦って連戦連敗といった状態ですが、戦争に勝つか負けるかはあまり問題じゃない。

 試練なんですから。試練とは、神が人間を「試す」という意味ですね。

 神は人間を試していいんです。人間が神を試してはいけない。』


『マスクス主義は、この弁証法に駆動されています。

 マルクス主義は、唯物論を標榜し、キリスト教と関係のないことになっていますが、

 私からみると、神がいないだけで、ほとんどキリストきょうと同じ。教会の代わりに共産党がある。

 共産党カトリック教会のように、一つでなければならないとしている。

 それは世界全体が、歴史法則に貫かれているからなんです。

 やがてやってくる世界革命は、終末とよく似ている。

 プロレタリア/ブルジョアの二分法も、救済される/されない、の分割線なのです。

 もう全体が、キリスト教の部品装置でできているのですね。

 というふうに、たとえばマルクス主義を生み出してしまうのは、

 キリスト教の重要な性質のひとつだと思われる。』


大澤先生は、本書の「まえがき」で、

われわれの社会、われわれの地球は、非常に大きな困難にぶつかっており、

その困難を乗り越えるためには、近代、西洋というものを相対化しなければならず、

こうした状況の中で、新たに社会を選択したり、新たな制度を構想すべくクリエイティブに対応するためには、

どうしても近代社会の元の元にあるキリスト教を理解しておかなければならない、とおっしゃっていました。


これまで、キリスト教に関する初歩的な本を何冊が読んできましたが、

本書が一番読み応えがあって、かつ、勉強になりました。

でも、やっぱり、私の中では、「全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか」という疑問は、

お二人の対談を読んでも、最後の最後までよく分からないままなのです‥‥。

その名は消えない‥‥

今日は、遠くから雷の音が聞こえるなど、雨が降り続いた一日となりました。

その代わりに気温が下がって、昨日に比べると随分と過ごしやすかったです‥‥。


さて、今日の話題は何と言っても、日経新聞一面コラム「春秋」だと思います。

その全文を引用させていただき、この日記に残しておこうと思います。

『〽ソーダ水の中を貨物船がとおる/小さなアワも恋のように消えていった――。

 胸に響く詞に、洗練されたメロディー。

 アルバムに酔い、大がかりな仕掛けのライブに熱狂した記憶をお持ちの方も多いだろう。

 ユーミンこと松任谷由実さんが近くデビュー50年を迎える。

 1970年代前半といえば、「女のみち」や「瀬戸の花嫁」がテレビから流れていた時代。

 そんな中、クラシックと洋楽の影響を受けたユーミンの曲の斬新なコード進行は、

 四畳半フォークにも飽き足らない若者の心を揺さぶった。

 女性の細やかな心模様を刻む言葉と相まって、「恋愛の教祖」なんて称号も贈られている。

 「中央フリーウェイ」「恋人がサンタクロース」に加え、

 男女雇用機会均等法が成立した85年には

 「メトロポリスの片隅で」で失恋から立ち直る働く女性を歌った。

 時代から2歩も3歩も先んじ、バブル期にはドライブの定番音楽ともなっている。

 一方で、冷戦を背景にした「時のないホテル」など作風の幅広さも見せた。

 東日本大震災の際には「春よ、来い」が復興を後押ししている。

 激動の半世紀、人々の揺れる心情に寄り添った、まさに「国民的」存在だったと思える。

 「私の名が消えても、歌だけが詠み人知らずとして残るのが理想」。当人はこう語ったと聞く。

 混迷が長引きそうな将来にわたり、あちこちで口ずさまれていくだろう。』


いえいえ、ユーミンの名前は消えることなく、半永久的に語り継がれていくことでしょう‥‥。

ちなみに私は、「瞳を閉じて」や「何もきかないで」など、荒井由実の頃のユーミンの曲がお気に入りです。

そして、コラムの冒頭の歌詞は、「海を見ていた午後」‥‥。

この曲を聴くと大学時代に、高校時代の女友達二人と横浜の街を散策したことを思い出します。

同期会にも顔を見せない二人なので、もう何十年も会ってないけど、元気にしてるのかな‥‥?

ずっと当たり前であること

今日も身の危険を感じるような、猛烈な暑さとなりました。

決して大げさな表現ではないと思います。


陽が容赦なく照り付ける、そんな猛暑が予想されたので、

午前中の比較的涼しい時間帯に、高齢者福祉施設に入居している父の面会に行ってきました。

父は顔色もよく、とても満足そうな表情をしていました。

父の口からも、「今の生活に満足しているよ」という言葉を聞くことができました。

その一言を聞いただけで、私の心も満たされたものとなりました。


さて、今日の日経新聞に掲載された伊藤忠商事の全面広告も、心が満たされるような内容でした。

そこには、緑を基調にした、どこにでもありそうな街の風景とともに、次のような言葉がありました。

『朝、美味しいコーヒーを飲むこと。

 頼んだ荷物が予定に間に合うこと。

 決まった時刻に飛行機が飛んでいくこと。

 一人で暮らす祖母の家の近くにコンビニがあること。

 地球の裏側に新しい道ができること。

 目の前の人の喜ぶ顔が見られること。

 誰かのために働けること。

 当たり前のことが、ずっと当たり前であるように。

 暮らす。愛する。商いする。Dear LIFE 伊藤忠商事


はぃ、この「当たり前のことが、ずっと当たり前であること」が、実はとっても難しいことなんだと、

年齢を重ねるごとに、そのように思うようになりました‥‥。

昨日の続きです‥‥

まだ6月だというのに、今日は厳しい暑さとなりました。

いきなり真夏がやってきたような、そんな感じの一日でした‥‥。


さて、今月14日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、カトリーン・マルサルの

「経済人が理性と自由を謳歌できるのは、誰かがその反対を引き受けてくれるおかげだ。」という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『自己利益を動機にひたすら合理的に行為する「経済人」を軸に市場を考える経済学は歪(いびつ)だと、

 スウェーデン出身のジャーナリストは言う。

 日常生活をケアする人や職業がなければ、経済人としての彼らの活動もない。

 経済の根底にはつねに人の身体的生存がある。経済学もそこから構築しなおすべきだと。

 「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(高橋璃子訳)から。』


う~む、これはとっても示唆に富むお言葉だと思います。

父が高齢者福祉施設に入居してから約二週間となります。

この間、私の日々の生活には、自由度が増すようになりました。

これも、施設の職員の皆さんが、父の世話をしてくださっているお陰だと感謝しています。


従来の経済学的な視点からすると、この私に与えられた自由な時間は、

生産的な社会経済活動に振り向ける必要があるのかもしれません‥‥。

ちょっと例に挙げるのは適切ではなかったかもしれませんが、そのように感じた次第です。


そして、今月12日の「折々のことば」は、

「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とす」でした。

これは、明治の政治家・後藤新平の言葉と伝えられ、

プロ野球野村克也監督も、これを口癖にしていたとの解説がありましたが、

以下の鷲田さんの解説は、省略させていただきます‥‥。

印象に残る言葉が盛りだくさんの一週間

今日は、午後から梅雨の晴れ間が広がりました。

シーツをはじめ、洗濯物がよく乾いて助かりました。蒸し暑くて、不快指数は高かったけれど‥‥。


さて、町立図書館に行って、6月12日(日)から6月18日(土)までの、

朝日新聞一面コラム「折々のことば」と「天声人語」を、まとめ読みしてきました。

この一週間は、印象に残る言葉が盛りだくさんの週でした。


まず、6月16日(木)の「折々のことば」は、在原業平

「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふ今日とは 思はざりしを」という歌で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『いつか最後に歩む道だとは前から聞いていたが、まさかそれが昨日や今日だとは思いもしなかったという謂。

 「伊勢物語」の最後に引かれる歌。

 ある日、思いも寄らぬ事故に遭い、以後思うように動けなくなったり、

 病気を患い寝たきりになったりと、人の生はしばしば、予期せぬ時に突如、途切れる。

 誰もその生を思い通りには描けない。そして用意のないままに死を迎える。』


ちなみに、この歌には、「むかし、男、わずらひて、心地死ぬべくおぼえければ」という

「詞書(ことばがき)」があります。

私は、自らの死に際して、業平のように、恬淡の境地には間違いなくなれそうにありません‥‥。

なお、同じ日の「天声人語」には、思想家・マキャベリの、次のような名言が引用されていました。

「戦争というものは、誰かが望んだときに始まるが、しかし、誰かが望んだときに終わるものではない」


続きは明日にします‥‥。