JMM(ジャパン・メール・メディア)の村上龍編集長の次の質問を読んで、
いろいろと考えることがありました。
『わたしは高度成長とともに育ちましたが、
当時は、経済が成長し、豊かになっていることを日々実感することができました。
今は、あのころより経済規模が格段に大きくなっているにもかかわらず、
「経済的に豊かだ」という実感を持ちにくいような気がします。どうしてなのでしょうか。』
編集長と同じく、私も高度成長の恩恵を受けて育った世代で、
「さて、どうしてなのか」、自分なりに考えてみました。
残念ながら、私には明確な答など用意できるはずがありません。
ところが、土居丈朗慶応大学教授の質問に対する回答を読んで、妙に納得してしまいました。
土居教授は、フリードマンの著書「経済成長とモデル」を紹介されたうえで、
「経済成長といっても、単に経済成長率が高ければよいのではなく、
生活水準の向上を多くの人々が広く共有できるようになることが
重要であると気づかされる。」と述べられています。
そして、人々が生活水準の向上をどのように認識するかについても、
フリードマンの次の指摘を紹介されています。
『要すれば、人は2つの基準で比較することを通じて認識するとし、
現在の自分と過去の自分、現在の自分と現在の他人の比較で、
どちらかの基準で現在の自分の方がうまくいっていると感じると、
他の基準でうまくいっていると比較する必要性が低下する。』
これだけでは何のことかさっぱり分かりませんが、次の具体例でようやく理解できました。
少々長くなりますが、土居教授の原文を引用させていただきます。
『高度成長期は、確かに今よりも所得水準は低かったとはいえ、
現在の自分と過去の自分を比較して、生活水準の向上を認識していたのでしょう。
その上、他の基準での比較、
つまり現在の自分と現在の他人の比較の必要性が低下するので、
他人に対してより寛容となれる状況が、高度成長期にもあったのでしょう。
これに対して、経済が停滞すると、
現在の自分と過去の自分の比較からは生活水準の向上を認識できないので、
もう1つの比較、
つまり自分と比較しやすい他人に比べてよい生活をすることへの執着が強まり、
他人に対し不寛容になる傾向がある。』
経済が停滞している社会では
「他人に対して不寛容になり、政治における論争の礼節が失われる」が、
そうならないためには、まずは自らの生活向上を自らの力で図る取り組みが必要だ、
という土居教授の言葉は、ズシリと胸に響きます。
生活向上への努力がいつか実を結ぶと信じて、もうひと踏ん張り頑張ることにしましょう‥。