町立図書館で借りてきて、
村上春樹の小説「1Q84」(新潮社)を読み進めています。
ハードカバーについた手垢をみるにつけ、
どれほど多くの人がこの本を読んだのかと想像しています。
今、全3冊のうち、2冊目のちょうど真ん中あたりを読んでいます。
読後の感想は、全部読んでから書こうと思っていますが、
今まで読んだ中で、自分の人生とオーバーラップする記述が2箇所ありました。
その一つは、天吾が小学生時代の青豆との「別れ」を振り返る場面です。
『そのあとずいぶん長いあいだ、天吾は自分の行いを悔やむことになった。
より正確にいえば、行いの欠如を悔やむことになった。
その少女に向かって語るべきであった言葉を、今ではいくつも思い浮かべることができた。
彼女に話したいこと、話さなくてはならないことが、天吾にはちゃんとあったのだ、
またあとになって考えれば、
彼女をどこかで呼び止めて話をするのは、それほどむずかしいことではなかった。
うまくきっかけを見つけ、ほんのちょっとした勇気を奮い起せばよかったのだ。
しかし天吾にはそれができなかった。そして機会は永遠に失われてしまった。』
大好きだった高校時代の彼女に、
「言えなかった一言」を今でも後悔することがありますが、
その時の自分の心境を代弁してくれているかのような文章です。
「あぁ、確かにあの日あの時、私には勇気がなかった。
そしてその機会は、彼女の結婚によって永遠に失われてしまった。」
二つ目は、青豆が自分の部屋を出ていく場面です。
『ドアの前で最後に後ろを振り返り、もうここに戻ることはないのだと思った。
〜(中略)〜
「さよなら」と彼女は小さく口に出して言った。
部屋にではなく、そこにいた自分自身に向けた別れの挨拶だった。』
京都での浪人生活に別れを告げて、
最後に予備校の寮の自分の部屋に鍵をかけた時、何故か涙が流れましたが、
あの時の涙は、自分自身に向けた「涙」だったのかもしれません。
「この部屋で一年間よく頑張った。
お疲れ様。いろいろとありがとう。さようなら。」
「海辺のカフカ」以来、
久しぶりに村上春樹の小説を読んでいますが、
「とある一節」を自分の人生とオーバーラップさせることが多くなりました。
小説のストーリーではなく、「とある一節」にです。
これも歳のせいなのかな?