昨日(11日)の全国新聞の一面コラムは、
同月9日に食道がんで58歳の生涯を終えた
吉田昌郎さんのことを採り上げていました。
吉田昌郎さんとは、いうまでもなく、
福島第一原発事故発生時に、現場で事故収拾を指揮した所長さんのことです。
それぞれのコラムがそれぞれの切り口で、吉田さんに哀悼の誠を捧げていました。
そのすべてをこの日記に書くことはできないので、
コラムの最後の文節を抜き出してみることにしました。
・朝日新聞「天声人語」
折しも訃報の前日、電力4社は原発10基の再稼働を申請した。
しかし緊急時の作業者の被曝限度などは、具体的な検討が進んでいない。
ご冥福を祈りつつ思う。「身を挺しても」の気概頼みで原発を操ってはならない。
・毎日新聞「余録」
自らのそれも含む錯誤の迷宮ともいえる原発事故に立ち向かい、
命をすり減らした吉田さんだ。迷宮解体の長い道のりを残した無念がしのばれる。
・産経新聞「産経抄」
東工大の先輩である首相への、無言の抗議だったのか。
一方で、東電本店の部長時代、津波対策に消極的だったとの指摘もある。
吉田さんが書きかけていたという、回想録を読みたかった。
・読売新聞「編集手帳」
長谷川さん(注:俳人の長谷川櫂さんのこと)の造語であるらしい「原発忌」という言葉が、
これほど胸に迫る人はいない。
このほかに、吉田さんのリーダーシップを称える記述も多かったです。
印象に残ったのは、次の記述です。
・「あの人だから団結できた」という現場の声も聞く。(天声人語)
・「今から中止を指示するが、絶対に注入をやめるな」
とひそかに作業員に命じた場面はその指揮の真骨頂とされる。
現場を知らない東京の混乱を見切った技術上の合理的判断だった。(余録)
・何より戦後68年、日本がさまざまな危機に見舞われたとはいえ、
これほど過酷な決断を迫られたリーダーを他に知らない。(産経抄)
重く圧し掛かる責任、そして極度の過労とストレスのなかで、日本を危機から救った人…。
「疾風に勁草を知る」という言葉では、とても語りきれないけれども、
長く吉田さんの功績を後世に伝えていく責務が、残された私たちにはあると思います。
と同時に、放射能の恐怖と向き合いながら、
使命感をもって職務を遂行された作業員の方々にも敬意を表したいと思います。