今月28日の日経新聞「文化」欄は、
作家・林望さん(リンボウ先生)の「減蓄の弁」というエッセイでした。
「減蓄」とは聞き慣れない言葉ですが、
一見するだけで、なんとなくその意味するところが想像できます。
本文を読み進めるうちに、さらに理解が深まっていくのが実感できました。
リンボウ先生は、兼好法師の徒然草を引用して、ご自身の考えや決意を述べられています。
『兼好法師は『徒然草』に、こう言っている。
「死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」と。
考えるほどに恐ろしい言葉である。
それは死が恐ろしいというよりも、
死の訪れの得体(えたい)のしれない不確定性に、私はおののくのである。
そこで、以前『臨終力』という拙著に書いたとおり、
私は、俄然(がぜん)、
このだれにもかならず訪れてくる一期の終焉(しゅうえん)に向けて、覚悟を決め、
今から着々と準備を進めることにしたのである。』
一期の終焉に向けての準備、その第一は遺言の作成で、その第二は財産の始末である。
このようにリンボウ先生は述べられています。
これを自分に置き換えてみると、
そもそも私には、リンボウ先生のように始末すべき財産がありません。
…が、リンボウ先生と似たような悩みはあります。
それは、本にはほとんど興味のない妻と娘に、その処分を委ねないといけないことです。
その本にしても、リンボウ先生のように価値のあるものは全くありません。
たぶん、本のリサイクル業者に処分をお願いするのでしょうが、
私の本が、本好き・読書好きの人に行き渡れば、本も喜んでくれるかもしれません。
次に、遺言の作成はどうかというと、
一年ほど前に、「老いじたく」の一環として、
「エンディング・ノート」を買ってはみたものの、
「一期の終焉」への緊迫感・緊張感がないせいか、それとも生来の怠惰な精神のせいか、
ほんの数ページしか埋まっていないのが現状です。
リンボウ先生は、このエッセイのなかで、次のようにも述べられています。
『こうして、一つまた一つと、資産を手放して行って、
死ぬ時には人間本来の無一物に帰してきれいに死にたいもの…
それが私の目下の理想である。』
私の場合は、手放す資産はないけれど、
「人間本来の無一物に帰す」という、理想的な最期を迎えたいと思っています。