今日(4日)の日経新聞「文化」欄は、
作家・関川夏央さんの「東京五輪、1964年の記憶」でした。
東京五輪は1964年、49年前の秋に開催されました。
1949年生まれの関川さんは中学3年生、1955年生まれの私は小学3年生です。
関川さんは、東京五輪の記憶を次のように述べられています。
『テレビで見た五輪の競技は、カルチャー・ショックだった。
「世界」は強く、ゴツく、美しかった。
その衝撃は、柔道無差別級・オランダのヘーシンク、
女子砲丸投げ・ソ連のタマラ・プレス、
女子体操・チェコのチャスラフスカなどによってもたらされた。
十月二十一日のマラソンは、これもたしか後半を美術準備室のテレビで見たが、
「世界」の広さと奥深さを目の当たりにしたという意味で、より衝撃的だった。』
この記述の中で、私の記憶に残っているのは、
チェコのチャスラフスカとエチオピアのアベベ選手。
そして、この二人よりも更に記憶に焼き付いているのは、
水泳や陸上の競技のたびに掲揚される星条旗と流される合衆国国歌…。
競技でのアメリカ選手の圧倒的な強さを観て、
日本はこんな国と戦争をして負けたのかと、子ども心に思っていました。
と同時に、当時、テレビでは「0戦はやと」が放映されていて、
このアニメを観るたびに、
圧倒的な強さを誇る零戦を持っていた日本がなぜ負けたのか、不思議でなりませんでした。
そんな気持ちを関川さんは、次のように代弁してくれています。
『日本の世界への「再参加」こそが戦後の子どもの悲願だったとは、
大げさな物言いではない。
「戦前はまったくダメだ」とオトナはいうが、「大和」も「ゼロ戦」も美しい。
少なくとも、白人世界と互角に渡りあった有色人種の国は日本だけだったじゃないか。
それがなんでいまは、と悔しさを感じていた。』
関川さんは、今日のエッセイでこんなことも述べられています。
『それから四十九年、「平和」「友情」という言葉は色あせた。
「民族主義」は戦争・紛争の最大の要因である。
五輪そのものも露骨に経済に奉仕する存在となった。』
さて、来月7日には、2020年夏季五輪の開催都市が決定されるそうです。
もちろん、東京に決まってほしいと願っていますが、
その2020年には、私も65歳になっています。
その時には、もう1964年の記憶は、彼方に消えてしまっているのでしょうか?
なんとかそれまでは、元気に生きていたいものです。